舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

型カタ型カタ

昨日よく寝たお陰でわりあい元気なような、しんどいような。今日は寒いですねえ。
急遽、月末は帰ることになりまして。
なんか久々過ぎてピンときません。私のおうちはここよー。
でも、にゃんこに会えるのは嬉しいなあ。もっふもっふ。半年とちょいぶりくらいかな。おおいに愛でたい。

今日は師匠がお忙しいようで、確認していないのだけれど、ちょっと自分の頭の整理がてら。


ダブルお父さんのお話を聞いていて、舞は型から入ると下手なんよ、型だけじゃブサイクなんよ、というふうなことをしきりに言われておられて。
それでも型は大切だよなあと思う反面、自分もそれは感じるところでもあるし、神楽講習会の時かな?講師の方も、型のコピーは劣化するだけ、と言われていたなあと思い出してですね。

狂言の野村親子とか、「型」は大切というようなこと言っていたけど、どういう意味合いなんだろうかとちょっと調べてみた。

簡単にいえば、「型」を己の身体に重ねること。己の血肉としてしまうことなのかなって。
「型」と、本来は相反するような「個性」が絶妙にあわさって身体表現としてたち現れてくること。


野村父の狂言から溢れ出る凄みは、意図せずに「型」から個性がはみ出ていること、なのだそう。「型」でありながらそれを感じさせない自然さ。
自然さとかいうとなんかつまらんけどさ。
それほどその人自身と、「型」とが融け合ってる。


一度にあれもこれもやっていたら、うわべ撫でしかできない。なんでもできるけど、なんにも残らない。

ただ表面上のコピーじゃないんよね。やっぱり心を打つのは。血肉となったものを見るから、すごく衝撃を受ける。
「型」でありながら、その人そのものを見るから、生きているから、心が震える。

それは、役における感情表現とかではないのです。
感情とかない儀式舞で人の心を打つことはできる。
それは、所作をなぞるだけでは到底無理なのだけれど。うまく言えないなあ。

多分、巫女舞の類いがちょっと苦手なのは、どうみたって所作をただなぞってるだけのようにしか見えなくて。一生懸命練習しているのだろうし、奉じているのだろうし、小さい子達にそこまで求めるのは酷なのだけれど、逆になんでそういう子達にやらせるんだろうって。本人達は訳もわからずということもある。
まあ稚児とか、そっちの意味合いもあるかもだけど。

どれだけ所作を、言われた通り正確になぞれても、人の心は打ちません。個性がない。中身がない。その人自身の不在。

そこまでいくためには、磨くこと、何度も何度も繰り返して身に付けていくことがないと、いけない。
口でべらべら説明するとか所作や言葉で自己アピールするとか、そういう問題ではない。


スマホからだとうまく引用できないのですが
文化デジタルライブラリーの狂言の項に
「まず大切なのは、正しい姿勢と基本の型を身につける事です。一見簡単に見える動きも、日常的な動作とは全く異なる緊張感を体の内にはらんだ身体表現であり、一つ一つが身につくまで、練習を重ねます。」
とあって、はあこれだろうなと。

神楽でもいえるんじゃあないかしら。


基本を磨くこと。
でもこれだけじゃあ足りないとは、野村息子も言っておられることで。
正解がないから、「なんぞや?」を常に問い続ける。本質を逸脱しないよう、自らに問いかけ続けながら、時代に合わせた答えをさがしていく。迎合と見られるかもしれないけど。

それでもそれでも、結局のところ、自分の身の内にあるものからしか、生まれてこないのよ。
先天的なセンスもあるし、後天的な努力、蓄積がモノを言う。

それ以上のものは出てこないのよ。

これは、自分が仕事をしていても感じること。己の引き出しにあるものからしか出てこないし、ないものはどっかから取ってくるしかない。でもそれは模倣にすぎない。つまらん。

だから、自分の持ちうるものを磨くし、常に問うし、時にはよそを見るのかもしれない。でもよそを気にするより、やっぱり磨くこと、問い続けることなのかなって。

うーん…堂々巡りみたいな感じになってきた。



凄みとか、厚みとか、歳を経て経験を重ねていないと出ないものでもあるかもしれない。でもやっぱり一つ一つを丁寧に重ねていなければ、それすら出ないんじゃないかなあとも思ったりとか。
だから、ある程度、この歳の頃はこういう演目、こういう役、とかあるんじゃあないかなあ。
なんでも出来りゃあ良いってもんではない。


人を圧倒させるのにですね、一番簡単なのは、視覚・聴覚で訴えることだと思うですよ。
目に入りやすい、残りやすい仕掛け。
大きい音。勢いのある音。
そういう人達が徒党をなしてバルバル往来を行くこともありますけど。

でも、それで真に人が感動すると思うのは大きな勘違い。
いつかは飽きられる。
しかも、その圧倒させる技は道具や勢い任せで、自分はいないから、自分には何も残りません。年老いた時、戦える武器が何もありません。

それは、悲しいことです。
たとえ歴は長くなろうとも、その身はなんと薄っぺらいことか。

人はそういう者を、体よく使いはしても、師と慕うことはないのではないでしょうか。
見ていればわかるから。
陰で笑うてるかもしれない。


恐ろしい。恐ろしい。


師匠の言いたかったことは、そういうことではないかもしれないし、そうだったのかもしれない。聞いていないからわからない。
舞わないものに教えてくれるかもわからない。


そも、では私には何が残るのか
舞わない。身の内にない。頭でっかち。
わかりません。
でも、私は私なりに「神楽とはなんぞや?」を問い続けるほかないのです。
まとまりないけど眠くなったから寝る。