読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

お金と舞

石見神楽あたり

生活力がなさすぎて、自分の両親以上に師匠(お父さんver.)が、ご飯食べてるの?とかタイヤは早く履き替えなさいとか、いつも心配してくださってありがたやありがたやなのでありますが、近頃は割引セールのかたまり肉ブームが来ているので、ちょいちょい料理はしています。
かたまり肉で一品作ると、三、四回は食べられるのでいいですなあ。

今日も実験成功で満足じゃ。うむうむ。

酒も塩も酢も醤油も味噌も大半の材料も島根のものを使って作るんだから、よほどバランス間違えなきゃまずくなるわけがない、はず…。

でもやっぱり味噌汁はなんか難しい。

来年も引き続きかめのふの飼育員さんは募集の予定です。
かめのふするための飼育員さんであって、脱かめのふさせる飼育員さんではありません。謎かけみたい。


そんなこた、どげでもいいか。


八調子が娯楽性にとんでいてどーちゃらこーちゃら、っていわれるときに、
もともと能舞は氏子の御花とか寄進?によって舞われていたから、より人の求めるふうへと変化していった、というような説明がよく使われますよね。

なんとなく、ショービジネスというような、ニュアンスが含まれているように感じます。

でも、ふとおもったのは、お宮の奉納ごとにおけるお金と舞は、そうはいってもやっぱりかかわり合ってるのだとおもう。

ギブアンドテイクというか。


昨日思い出したのですけど、花祭りで、昼間の時間に、延々と個人のために舞う時間があるのです。
玉串料なのかなあ。
お金を奉じたその人のために、いうなればリターンとして、舞い奉じる舞。

なんか悪いことがあった人や、なにか節目を迎えた人、家族。
その土地、コミュニティに生きる人たちのうち、その年よりいっそう祈りのある人やお家が、お金と引き換えに舞ってもらう。
で、だいたい舞う人も、見てる人もそれがどんな人、なにがあったか、などもわかってる。
同じ土地に生きてるから。


基本的には、八調子地域でもそういう意味合いだったんだと思うんですよね。
だからこそ、やっぱり一番よいものを神の前で舞ってもらいたい、自分も享受したい、という思いも働いたのだとおもう。

それで舞ぶりや舞い手が淘汰されていった、というのはたしかに興味深いですけれど。

海の人としての気風もあるのかもしれないし、他の土地とのやり取りが必要とされた土地だからかもしれない。

でも邑智郡もあったんじゃないかなあ。わからんけど。

大目録だって、いってしまえばそういうリターン品ですよねえ。


だから、なんというかなあ。

また寝落ちしてた

娯楽性とか、ショー的特性に目が行きがちなんだけれど、基本的には、やっぱり神楽なんだよなあ。