舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

ホルマリン漬け

私は、神楽の話をするとき、神楽は時代の変化に合わせて形を変えながら生きてきたというけれど、では、「古式を残した」ものはどうなんだろうかと改めて自問してみた。

今ひとまずの解としては、それもまた一つの時代に則した「変化」ではないかなというところ。

ある日誰かがふと立ち止まって、振り返る時のために残さなければいけない時代、あるいは「古き良き姿」「昔ながらの姿」に絶対的価値を見出だす時代でもあって、そういった時代の要請に応えて、時間を止めた。
そもそも時間を止めてしまえるような、「古式」を謳えるようなところというのが少ないので、余計に価値とされる。

そういう存在はもちろん必要。
しかしながら、とも思う部分もあるけど、必要な存在であることには間違いない。
そういう時代でもある。


しかしながら、我々が気を付けて耳を傾けるべきなのは、ほんとうに、根っこから枝葉まで一度も途切れることなく、ほんっとうに古式をそのまま正しく継いでいるところなんて、無きに等しいので、正統なとか源流だとかそういった言葉は穏やかにしかし注意深く捉えなければならない。

全国等しくそういえる。

少なくとも、明治初期。大多数はまずここで一旦途切れる。長短の差はあっても分断される。
そして、昭和の戦中後、高度経済成長期。
みんながみんな等しく時代の余波を食らっている。

必要があって復活したものが多いと思うけど、求められなくて消えたものでも話題作りのためだけに復活することもある。



今残っているものたちは、担い手を変えた。あるいは芸態様相を変えた、それは踊りだろうが舞だろうが歌だろうがとにかくイチャモンつけられたもんは変えた。まず明治初期は大方これ。
残りは中央の目が届かない辺境の地であったか、一番入り口に近いところだけ、ようはパッと見だけ迎合したように見せかけて他は残した。残すために誰かが犠牲になって変わった。

八調子が生まれた背景、大元祭りを捨てた背景も、ただの海の民と山の民の嗜好の違いとか、娯楽を求めたとかそれ以前にこの時代と、浜田の土地柄があるんだと思ってる。少なくとも、私は。
浜田が変わらなかったら、六調子も守れなかったかもしれない。みんな共倒れしていたかもしれない。


昭和は以下省略、だけれど、掟すら変えざるを得なかったところもある。

担い手がいなければ継げない。
受け手もいなければ継げない。

ただでさえ、ナマモノ。


一人の人間なんて、ほんのわずかな時間しか神楽やそういったものたちに関わっていないのに、その前後ほんのわずかな時間しか見つめられないのに、どうして、確信をもって変わらないだとか正統なとか源流だとか言えましょうか。

化石じゃないつもりなら、なおさらに。

東の亀さんの娘さんは、それを「ホルマリン漬け」と呼んでいた。ふと思い出した。

もちろん、その言葉を気概を誇りとして、全てとしている人もおられる。叩いたらこっちが怪我をするのでそこは穏やかに微笑みながら、でも自分の眼で冷静に見つめなければいけない。


それでも人は、遺すんだよな。

がおおおお

取引先へお使いごとへ。
いつも話し込んでしまうけど、たまたま探し物についていって書架を覗き込んだら、伊勢大神楽の本を見つけちゃった。
いいなあいいなあ言っていたら貸してもらえました。わあい。ラッキー。

たしか麒麟獅子の研究をしている人だよなあとおもったら、やっぱりそうでした。
もう亡くなられてしまっているらしい。そうか。残念。


まず面白いのが、獅子舞の英訳が
Sacred Lion Dance という。

名詞の修飾だから意味合い的にも…神聖な、神の使いの…あたり?
単純に読めば、聖なるライオンの踊り。……オオゥ…
唐獅子はどっちかといえば狛犬と同系統なんだろうけど、がおおおの方になるのか。

堅実に判断すると15,16世紀成立と見るのがいいようですが、桑名ね。桑名。なんだろう、なんか聞き覚えがある場所だなあ。
そこに残っている獅子頭とか見ると、やっぱり岩手のプリチー権現様の獅子頭も、大神楽のそれを模しているのがわかります。チリチリ頭みたいな。九字なのかな?白い紙で作ったモジャアとしたタテガミ?がくっついてる。

社風神楽だったかな。頭からかぶる権現様がいくらかありましたが、あれは完全大神楽の色がありますね。
多いのは腕と手で扱う、小ぶりな権現様。
それでもって、鹿踊りに顔が近い。
たしか、あのふたつは兄弟みたいなもんという本を読んだぞ。

ということは、素直に大神楽を参考にした頭と、なんかなぜだかトランスフォームして獅子と鹿に分かれた頭があるんだな。ふむふむ。なんでだ?

あ、社風神楽は神職がほかよりもうワンステップ担い手として関わっていたところだから、そうなると神職が伊勢系だったという仮定も立てられるかもですね。
頭、あるいはそれに必要な材料や技術が伊勢で整えられた可能性も考えられる。対して、現地で生まれたのがもう一方の獅子、そこから分かれて鹿、とか?

ふーむ。

すんごく雑にメモすると、大神楽の発生地点では、伊勢のお札を持ってる系の集団と、回り神楽を持ってる系の集団が、じゃあお互いに持ってるものを分けあいましょうねって、お札を持ってる系の集団が回り神楽を習って東日本へ、回り神楽を持ってる系の集団がお札をもらって西日本へと行脚したらしい。
なんという。スゴいな。
どっちかが、こりゃうちのだからって占有していたら、今のような獅子舞の超広範囲な伝播はなし得なかったわけですね。スゴいな。

そしてこの人たちの特筆すべきは、その芸態に影響受けた獅子神楽は生まれたにせよ、大神楽そのものは自分達が担い続けて、現代におけるまで回り続けているということでしょう。
その土地のもとある文化を駆逐するのではなく、お役目を果たして去っていく。そしてまた来年やってくる、みたいな在り方。
まあこれについてはもう少し読み進めないと本当にそういう見解でいいのかわからんですが。今のところの印象として。


ただ、ご多分に漏れず明治4,5年は政府から禁止の通達があったよう。
村を渡り歩いて神楽奏して見返りもらうなんてけしからんとか、お札を配って歩いてけしからんとか?そんな感じかな?

なるほどねえ。

そう思うと政府は政府で結構それぞれの地域の神楽の特色について把握した上でテキメンの禁止令を通達してる感もありますな。

マジで新政府のおかげであらゆる文化が大打撃だ。


そうそう、あとこの人の文を読んでいて、普通神楽とはカムクラから派生したもので、その字は「神を楽しませる」ための供物として、という論調がポピュラーだと思いますが、「神がたち現れるときの楽」というニュアンスでは、みたいなことを書いておられてホホゥと。結構その論好きかも。
誰が楽しむか、というより、その楽によって神が現れる様子を表したりとか、が確かにしっくりくるような。
楽しむ楽しまないはまたそのあとみたいな。

なるほどねー。


急に眠くなってきた。
また明日読んでみましょうかね。

まいあそぶ

最近つとに思うのが、結局のところ大いに思考して知り得ない世界を垣間見て楽しむためには、衣食住と心身が調ってないと難しいんですわね。

考えたくても、今日のご飯どうしようが頭のなかを占拠していたらいけんのです。


心も荒れ荒れなので、途中だった恩師の本をまた途中まで読んでみた。
先生の本は難しくて一章ずつ進むのが精一杯なんだけど、なんだか読むのが楽しい。先生の声が聞こえてくるようで。中世の芸能への愛がモリモリで。
最近こういうひたすら愛を叫んでる本を読む機会少ないな。


で、また神楽とかについても通じそうなこととか。めもめも。

平安後期から中世にかけて、新嘗祭のときに行われた五節という…ようは宴会芸的な?のが宮廷であったみたいで、それがまあ時代を下るごとに盛大な乱舞となったらしい。「芸能尽くしの宴」とな。

もとは、貴族たちが、娘の宮廷出仕の絶好のチャンスとして、天皇を前に舞を奉ずる娘たちをとびっきり美しく着飾り、つかいの人たちや控えの場をいかに美しくしつらえるかとしのぎを削ったのが、院政になって外戚関係とか望むどころじゃなくなって、自分達が楽しんじゃおーぜーに変化していったらしい。
だんだん、娘たちの舞メインから、今様とか白拍子とか?即興で舞っちゃうとか?

モノクロだからわからんけど載ってる絵巻の人たちの頬が赤く見える。しこたま飲んでそうな感じ。

行くとこまで行くと、もう、帰るのも名残惜しくて、宴でやった芸能とかをもう一回ループしちゃうし、それぞれ立つたび歌を歌って足を踏み鳴らして帰ったらしいとか。

どんだけ好きなんじゃ。

というか、一番上のほうがそうやって舞い遊び狂っていたんだから、そりゃあ、下のほうも熱狂するも当然なわけで。
雅楽が公式にせよ、もっと世俗に近い芸能もまた大いに楽しんでいて、同じようなものを上も下も見ては喜び笑い享受していたんですね。


結局この構図って、特に今の石見とか、本当に変わらんのじゃないかなと思うのです。
芸能の本来の姿って、こうなんじゃないかなって思うんです。

みんなが楽しい。みんなで舞い遊ぶ。
上も下もない。
人を唸らせる名手は評価されるし、反対に身を持ち崩し滅びる人もいる。

その前段階として
天皇であったり、神であったり、一番敬っているものの前に立つとき、自分のもてる一番の設えで、一番の美しさで、一番のセンスで着飾る。
そのさらに前には、新嘗祭とか秋祭りのように一番の初物、一番良いものを捧げ奉る行為や心がある。

儀式として、心構えとして、それは踏襲しつつも、やっぱり自分達も楽しみたいよね、という気持ちがだんだん出てくるのでしょうか。
みんなでわいわい、酒を飲み交わしつつ、歌を歌いつつ、時には体も動かして、舞い遊ぶ。

そしてそれが、天皇や神を喜ばせる。

ある意味これが日本人、大和のDNAなのかな。


それが、宮廷だって辻だって戦場だって関係ない。
いや、だからこそ舞うのか。今この時この場所だからこそ舞う。歌う。この時代だからこそ。


乱舞の系統でいくと、僧侶もまた担い手らしくて特に奈良の辺が多いのかなあ。延年というと、なんか岩手とか奥州藤原氏、平泉なイメージだけど、その元祖ってよく考えたら都だもんなあ。

なんと読んでたら我らが頼長殿が出てきた。ビックリしたなあ。もう。
クッソ真面目な頼長殿は「僧に似つかわしくない」って眉をひそめちゃうくらい、舞とか歌とか、そういった身体表現が自然と出てくるような時代だったんだということなのでしょう。

それがまた、身分を越えて心を通わせることもあったりして。きっと、頼長殿はクッソ真面目すぎてその時代に適応できなかったんじゃないかとも思うね。うん


読んでいると、抱腹絶倒な乱舞で超大盛り上がりしたで、みたいな記述も結構出てくるんですが、抱腹絶倒する乱舞って想像つかなくて、当時どのようなものが舞われていたのか本気で気になる。

岩戸でも、ウズメちゃんが神楽を奏して神々が大笑いしたってあるけど、もともと、多分少なくとも古代から中世は確実に舞と笑いがセットだったってことよね。
それが「舞」なのよねえ。
「踊り」じゃない。

今はどちらかというとそういう要素は「踊り」が担っている気がする。
そもそも「踊り」が発生したのはいつの時代なんだ?

一遍のなんとか踊りは「踊り」だし、阿国のかぶき踊りも「踊り」。時代がよくわからんけど。
一遍は鎌倉か?
うちの近くっちゃ近く、地元ら辺にたしかお寺あるし。鎌倉仏教だったかしらね。
むむむむむ


今神楽で抱腹絶倒系というのは、全国的にいわゆる男女和合・五穀豊穣系。おかめとひょっとこ、翁と嫗がポピュラーじゃないかな。

石見でいえばチャリだけど、チャリ舞は案外男女和合系少ない。
「五穀種元」くらい?五穀豊穣を表してるから、あれは大元信仰の名残というか、大元祭りの時にはすごく大切な舞。なくしたらいけない舞。って、師匠もいってた。
「大蛇」でじいじとばあばがいちゃつく時があるけど、あれもこれの部類なのかな。

でも、「八十神」「日本武尊」「黒塚」「五神(の使い)」、おおよそやられる「貴船」とかとか、あれは男女和合じゃない。なんでだ?
これだけ全力で笑いをとる系で、男クサイのって珍しいと思う。多分。

とはいっても舞で笑いをとってる訳じゃないしなあ。

舞で、腹がちぎれるほど笑うってどんなんなんだろう。見てみたい。それを目撃しにできればタイムスリップしたい。


これだけ妄想させる先生はやっぱりスゴい。
はあ。

至極の舞と楽の空間のなかに身体を浸してそのまま空気中に粒子となって溶けて無くなってしまいたいよ。

のう 

松江のどこの神社だったか、忘れてしまったけれども、遷宮かなにかの記念として能を奉納したという絵馬?を見たことがあって、何となく気にしていたのですが、この前たまたま本を見つけて読んでみたら、松平家松江藩主になって以降、時代の流れに漏れず能楽文化の記録があるらしい。
かつては城内にも能楽堂とかあったのかなあ。

仕舞系は家老?の家でも執り行ってたっぽい。


自分のなかで、佐陀神能の成立とか、その後の伝播についていろいろ考えていて。

神能についての言及はさらっと読んだ感じないんですが、その本を読む限りでは、松江に能楽が定着するより神能の成立のほうが早そう。
神能は慶長年間という記録が残っているから、故意に盛っていない限り事実。
一方、松平の初代藩主直政は、慶長生まれで松江に来たのはもっともっと後。ということは、神能のほうが早い。
昔の神社と藩の関係とかよくわからんけど。

ふむ。
ここは多分動かせないだろうなあ。

ただ気を付けてみるべきは伝播のほうですね。

松江に能楽があったということは、それよりも前に各地域でも能楽が一種ステータスとして各藩に持ち込まれていたということでもあり、石見、浜田藩・津和野藩にもなかったとはいえないということ。
「ない」という記録があればあれだけど、そもそもの記録がない気がする。
ただ、乏しい山城の印象からして、浜田あたりは毛利の流れ?なのかな??なんとなくイメージ的にあそこらへん好みそうだから、あったんじゃないかなーとか思うんですよねえ。戦国から江戸までの歴史とかと勉強せんといけんかしら…


とにかく、ということは、いわゆる採物神楽、かつて出雲流神楽と呼ばれたひとつの大きな特徴ある神楽は、一番古い記録が現段階で見られるのは佐陀神能かもしれないけど、圧倒的な力で他の地域の神楽に影響を与えた、と断言はできないんじゃないかな。
その伝わり方の道筋もよくわからないし、それぞれの地域ですでに能楽という存在が、身体とか所作とかがあった
ポテンシャル?というか。

で、特に石見は、隣っちゃあ隣だし、それこそ影響受けてないはずがないんですけれど、あんまり想像つかない。
ほかに、出雲-石見で関係性を見られるものとかあればいいんですけど、それも思い当たらなくて。
なにかあるかしら。
ふむむ


眠いのでこのくらいで。

難しいなあ。

時速40キロ

今日は一日なんだかどこへいっても前の車が40キロで走ってる日でした。たまにあるのよねー。
きっと外回り仕事あるある。



温故知新。

故きを温ねて新しきを知る。


言うのは易し。


古きを知り、尊ぶのは大切なことで、それは文献だけではある一面しか知り得なくて、古老の言葉とか、土地の記憶とか、あらゆる面、パーツパーツを組み合わせながら、思いを馳せること。過去だから、想像しながらなことも多い。
そのなかで、「古きを継いでいる」存在がどれだけ貴重であろうかと。
だから、あの手この手、良いんだか悪いんだかいろんな方法で保存、時を止めてしまおうと、ずうっとしてきた。

ふと立ち止まったとき、あるいは迷子になったとき、道しるべにはなる。

でも我々が意識をして思いめぐらさなければならないのは、それがいつから"古い" "伝統"と呼ばれるものになったのだろうか、ということなのかなとも、思うのです。

それは後世の人が判断したことであって、もともとはその時代その時代で流行ってきたこと、面白かったこと、あらゆる"最新"であったはず。
それがいつしか、失速したのか、世界が速すぎたのか、あるいは止まってしまったのか、古いものとなった。

もちろん残っている、伝えている、継いでいる、それはものすごいエネルギーを使うこと。偉大だなあと思うし、ありがとうって思う。素直に。だから、敬意を払うし、尊敬する。
ただし、胡座をかいていいかは、それは違う話。


むかーしむかし、
衣装も、面も、見せ方も。
ああなんてイケてるんだろう。ああ真似したい。どうせならもっとかっこよく。もっと、もっと。そういう気持ちが、本当はあったと思う。自分達ができる範囲、調達できるもので、どうしたらいいんだろう?って考えていたと思う。

それがいつしか、気がついたら古式になっていた。

どこで止まってしまったのかは、よくわからないよ。
きっと主に昭和あたりなんだろうと思うけど。



知り得ないから、思いを馳せる。
いろんなパーツを拾い集めて、たずね求める。
真実とか、答えとかじゃなくて、なんかもっと小さくてはっきりしない感じ。主観の寄せ集めみたいな。

それをごっくんと呑み込んで、なんか新しいものがまた出てくる。
感覚とか、知識とか、思いとか。

それがまたながーいながーい目で見たら、文化となっていく。いろんな人の吐き出した新しいものがまた、寄せ集まって大きく大きくなって、文化となっていく。


そのなかには、ちょっと思ったのと違って一発屋的な感じとか、物理的とか何らかの事情で分断されたりとか、するものらもあるんだと思う。あるもんなんだと思う。
でもそれらもまた、いつか誰かが、気がついて拾うかもしれない。


私の考える温故知新。
絵で描いた方がイメージわきそうだけど、なんたって絵心ない。

師匠は、どういうふうにその言葉を考えておられるのか、いつか聞いてみたいであります。


ともあれ、多分、いままでは、そのサイクルがゆっくりゆっくりだったんじゃないかな。時速40キロかそれ以下。

それが、気がつけば今は超加速していて、常に首都高を走っているような。
でも、気を付けて。
スピードの出しすぎは事故のもとだから。
煽ったらダメだから。
なにより、気が短くなるというか、セカセカセカセカして他者に優しくなれなくなっちゃうから。

時速40キロで、春の風を感じながら、景色を楽しみながら走るくらいが本当は良いのかも。

約束ごと

本とか読んでのメモをいろいろ。かきかき。


ちょっとソースは怪しいんだけれど…
絵本の構成とか、読み聞かせについてネットで読んでいたら「結末を知っているからこそ」物語の世界を冒険できるとあって…
神楽を含む「約束事を楽しむ芸能」もこれに当てはまるんだろうなーと思ったのでした。
時折師匠が話しておられる、漫才の鉄板とか、チャリにおける鉄板とかそういうのも、「オチを知っているからこそ」やりとりを楽しめるんだろうなあ。

でも同時に、それは暗黙の了解でもあって、オチは知っているが皆までいうな、なのよね。
誰かの口によって種明かしはされたくない。

なんて難しい乙女ゴコロ。
だいたいおじさんだけど。



あと、恩師にいただいた本を読んでいて興味深かったのは、江戸時代には、既に舞のなかで花火プシャーする演出が生まれていて、それがウケてたってことね。
興福寺の延年舞だったかな。
扇に花火仕込んで燃やしながら舞ったり、華やかで凝った装束で舞ったり。
最近になっての、やもすれば"過剰演出"なのかと思いそうなのが、既に先人たちがやって楽しんでいたというのはなかなか面白いし、しかも宗教者が率先してやっていたという。
現世とか煩悩にしがみついとるやないかいという気もしないでもないけど、たまのお祭りだから、とっておきのことをしたい、人を驚かせたい、楽しみたいという思いは昔も今も変わらないんですなあ。

師匠が、生活と共に生きてきたからこそ、お祭りでとびっきりの衣装と演出で、人も楽しむ神にぎわいは、形は違っても昔も今も一緒、って言っておられて、なんか納得。
いまはいろんな情報や人や思惑が、コミュニティの内外で入り乱れるからややこしくなるんかな。


先生が書かれた本は、なんか先生の声が聞こえてくるようで、愛情が感じられるようで、読むのが楽しい。ボリュームがそこそこあるので、なかなか読み進められないけど、じっくりじっくり。


あとは高千穂の本を読んでるけど、こっちはちと読みにくい。

でも、興味深いのは、こっちはあんまり神楽歌とか、舞い遊ぶ神々とか、ビミョーに合致しないのね。
一方は面白いくらい地域や舞いぶりを越えて神楽歌が似通っているのに、こっちは似ていない。
岩戸信仰とか、影響は与えていないはずはないんだけれど、神楽形成における重要な部分を担った宗教者が多分違うんだろうな。

東北の神楽も神楽歌がわかる文献がほしくなってきた。うずうず。


一週間の半分働いて半分自堕落プラス勉強・フィールドワークで、いまよりちょっとだけ余裕のある生活ができたら、私とっても幸せ。
ま、夢のまた夢

土地のはなし

言われてみればたしかにと思ったことなのですけれども、誰がなんといったって、どんなに古い古いいったって、長浜面とあの衣装持ってる時点で長浜あたりの影響受けてるからね!っていうこと。うーん、たしかに。

圧倒的な影響力をもつほどに隆盛を極めた土地。

なんというか、長浜のあたりは、いまも商港ありますが、貿易の港だったんでしょうか。温泉津とかに近いような感じ?北前船寄ったんですよね?
刀工、根付師、提灯の職人。神楽産業の礎があった。

そういえば天満宮とかあるあの一本の通りは、昔の街道みたいな感じ。
郡上のへんとかみたいな、人が行き交った名残がなんとなく見える。
いつも思うけど、いまの交通の道筋からすれば外れているというか、なんでこんなとこ?みたいなところが実は昔は栄えていたりして、逆にいまの道筋から外れているからこそ残ったり、「ファスト風土」になりきらずにいたりする。
やっぱり交通を調べるのも面白いよなー。


あ、刀工がおられたから、熱田神社があるのかな?
あの熱田の人がやってきたという記録もたしかあったはず。

神社事情も面白い。

蝋燭とかも作ってたりしたのかなあ。どうなのかなあ
いずれにせよ、明らかに、浜田のなかでも商業地帯であったことは間違いないですね。
世の中の最新の情報が入りやすい土地。
普通神楽を育むのは農業地帯。正しい言い方わからんけど。

ふーむ。


そうそう。そういえばこの前の田ばやし見ていて思ったのですが、やっぱり海側と山側ではビミョーにテンポが違いますね。
本来は、その土地に生きる人が、無理なく動けるリズムであったはずだと思う。
だから、そう考えると、神楽も、やまはやま、うみはうみで好むリズム感は違うとするのが自然な気がするのね。


あと、これは合っているかは別として、自分のなかで最大の発見でありましたが、
結局なぜ日本全国において、神職の神楽演舞が禁じられたことで農民への移行が可能になり得たかといえば、田ばやしとか田楽とか、風土にあったリズム感をすでに持っていたからなのではないでしょうか。
神楽も、担い手は神職、古くは修験者だけれども、土地の人たちが求めないものならとっくに消えていたはず。ということは、リズム感含めて芸態が土地に合ったものだった。
最初は、神職に習ってとか見よう見まねとか「もどき」だったとおもう。
逆に言えば「もどき」ができたわけで。
それは、いくらなんでも素地がなければできません。
一人二人、超センス良くても、神楽を執行するにはもっと人数が必要。
神楽を執行することができる人数が「もどき」できるということは、すでにそのリズム感や動きといった身体ができていないと、なんぼなんでも難しかろうとおもいます。


あれ、なんかなに言いたかったのかまとまらないんですけど。


だから、やまはやま、うみはうみで、それぞれちょうどいい神楽があったんじゃないかなあ。
そういう意味で、八調子がひろく山を越えちゃってまで伝播したのは、桜江の某先生がいう「身体の西欧化」がなしえたことなのかもしれない。

西欧化は海からやって来たのか。
革新は海からやって来たのか。
ニライカナイ


だからね。
自分を正当化したくって、守りたくって、他方をよくよく考えずに皆いってるからって馬鹿にして貶めていると、実は自分を作り上げている要素そのもの、根底そのものを貶めていることになるときもあるし、誰かが馬鹿だなあってクスクス笑っていることだって、ないとはいえない。

正当化したけりゃ、きいてー!おらっちすごいんだぞー!でいい。
比較対象、見下す対象を付け加えるのはナンセンス。


と、おもったりするのですよ。