舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

講習会とかぐら そのいち

講習会は、安定のお二人が講師でした。

長浜面のセンセーのお話を聞いていて、やっぱり、きちんと学ぶなら石見焼のほう、作陶の歴史の方まで掘り起こさんといけんなあと改めて実感。
そこでの繁栄が、長浜人形、そして長浜面に繋がるんだなあって。1300年代ってことは、神楽の草創期にも繋がりそうよね。
あと、これはまだわからんけど、大麻山あたりも注意深く見ないといけない。これはめも。

あと、長浜人形師が面を作っていた時代から芸北・山口のほうからも面を求めに来たとのこと。
多分お若い頃は、まだ長浜人形師もおられたんじゃないかと思うけど…でも、ともあれ、気風とか交易の動きとかも見えるね。

ずうっと前から伺っていることもたくさんであったけれど、今だからこそ「長浜面」であることを強調しなければという思いとか、もう自分は意識していてもついていけない部分が出てきたとか、今まで聞き逃してきたのか、そもそもなかったのか、そういう思いや言葉が刺さって、なんだか年を重ねることの切なさも感じてしまった。

私は、おっしゃっていることの意味について多少なりわかる気でいるけれども、しかしながら、やっぱりその土地で、時代の流れに身を浸し、人と相対しているからこその思いとか、感じておられることは、こちらの想像を遥かに超えているんだろうなあとも思うのです。

聞きなれた中に、新鮮さがいつでもいる。
それが「口伝」でもあるのだと思う。
だから、本当は、何度だって同じことを聞いていたいと思う。億劫なときもそりゃあるけれども。それでも。耳を引っ張ってでも聞かせてほしい。本当は。

あとは、飾り面の需要が減っている話とか。難しい。
私も飾り面は買えないのでかわりにカレンダーの鍾馗を額にいれて飾っている。ううーむ。むむむむむ
いい風習、文化だと思うんだけども。
難しいね。

よく言っておられることだけど、行きすぎると頭叩かれる。行かなすぎると衰退する。という言葉を、聞くたびにもごもごと咀嚼する。

分かっていて行きすぎるのか。分かっていて行かなすぎるのか。分かっていないのか。


長くなったので分けることにした。まずいったんおわり。