舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

能を見たこと

今日は能楽を観に行きましたのです。
やっぱりこればかりはなかなか島根では機会がありませんので。

かもたまたまタイミングよく、私が小学生の時にであって、能と狂言をすきになったきっかけとなった囃子の方と、野村親子の出られる公演でした。
はあああ~やっぱり美しいなあ。心地よいなあ。
まあ初めて観たときから十年以上はたっておりますので、みなさまナイスミドルになっておられますけれども、記憶の中のそれよりいっそう深みのある音と声音でありました。気持ちよすぎてうつらうつらしちゃった。

大鼓と小鼓の方は、お二人が揃うと、タイミングが外れることがなくて、なんというか…物語ともぴったり寄り添った囃子なので、もー…にまにま。

その、あんまりよくわからないので本当になんとなくの感覚なのですが…、能楽も神楽もなにかひとつが飛び抜けてしまうとちょっと気になっちゃう。
舞ひとつ、音ひとつとりましてもね。

引き算の美というか…

みんながそれぞれ引き算したものがあわさっている感じ。
めっちゃ高い日本酒が、米をかなり削ってできてる感じ?ちょっと違うか?でもよく削って雑味を取り除かれているからうんたらかんたらっていうもんね…だから当たらずとも遠からずくらいかしら。


私の初恋は萬斎さんだと言い切って憚りませんが、神楽を見まくって改めて能を観てみると、ああDNAを感じるなあというところも、感じないところもあり面白いのですが、「型」の凄さに感じ入りました。神楽でいうところの所作。

「型」をみて、目の前の彼らがどんな気持ちなのかとかがわかるわけです。

今日観た「泣尼」では、僧侶が居眠りこいてる尼をみて「!!」という型をするのですが、「八十神」で兄まあが一生懸命八上姫を追っかけて適当にあしらわれたときの「!!」という所作とほぼ同じ。

で、傍観者の我々はなんとなくその「!!」な"顔"が面白くて、くすくすしちゃう。

神楽でシオリという所作はない気がしますが、嘆くときは嘆く所作をして、胸が締め付けられて悲しい気持ちになる。


なんというか、ようは感情を読み取るのに、表情は実はあんまり重要じゃなくて、その所作で感じているのかなって思ったりして。あとは耳からはいる音。踏む音とか、囃子の音とか。効果音?

不思議だなあ。

しかも、人体のもつ感情の波を表すのは顔ではなく所作だというのを、室町時代の人は気が付いていて、あらゆる雑味を削り取っていったってことなのですよねえ。
いやはやいやはや。


でも興味深いのは、そうやって削っていったのは「人体」の方。顔とかからだの動きとか。
装束はね、能とかもやっぱりとびっきりいいものなのですよね。

なんでかといえば、室町時代とかは、一国の主の前で舞うわけですから、あんまりきちゃない格好はできませんわね。
そのとき手に入りうるとびっきりな装束をしつらえたのだと思います。
博物館とかに所蔵されている当時の装束を見ても、本当に美しい。今も、言わずもがな。

神楽も、それは一緒だと思うのです。


話の落としどころがわかんなくなったけど、やっぱり能も狂言も神楽も、大好き。違うところが好き



いつか師匠とも観てみたいなーとか勝手に思ったりして。
神楽が身のうちにある人が、良い能や狂言を観られた時に何を感じられるのか、大変興味があります。


私の思う最高な顔ぶれで、欲を言えば共通する謡曲を、観てみたいものですなあ。