舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

マツリの基本型

『日本の聖と賤』という本を読んでる
わかるといえばわかるけど、わからないといえばわからない。むずかしい

マツリの基本型として巫術(シャーマニズム儀礼)がのこっているというはなしで

「神憑りは、だんだんクルウ状態になって激しい身体表現」をともなう
「この神遊びが、その場にふさわしい状況をより効果的につくりだすためには、どうしても歌舞音曲は欠くことができない」
「ハヤシ(囃)というのは、クルウ状態になりつつあるシャーマンを、そのまわりを取りかこんでいる人たちがかけ声などをかけてその状態を加速させる」

そのトランス状態をクルウといい
神との交感儀礼を行い、託宣をカタリ、呪文をトナエルという

このマイ、オドリ、クルイ、カタリ、トナエルがマツリの基本型である、と、いうことらしい

これが村の防疫厄除などのマツリとして、村落に受け入れられていたけど、体制的社会においては人心を惑わすことを理由に、卑賤化されていく…というはなしに繋がっていくのだけど、これはとても納得がいくようなはなし。
なぜ人心を惑わすことを恐れたかといえば、それが「乱」となって、体制を脅かす可能性があるわけで。

だから、体制的社会や国家神道を進めていくにあたっては、やたらな神がカタリ、トナエたら困るってこと。

宮が掃除されておらず汚い、とかその程度ならかわいいもんだけど、米の出来不出来も内容によっては体制の脅威になりえる。また、なにか言われたら不都合な神々も歴史的にはおわすわけなので、まるごと引っくるめてやめさせた方が早い。


でも面白いのは、それでも人は歌舞音曲は捨てられなかったってことだし、やもすれば、神憑りはしなくても、トランス状態にはなることがある
今でもそれは当てはまるように思う

でも、大事なのはあくまでも舞い踊るほうということがわかるのも面白い。

いまもかけ声という囃しも、楽という囃子もハヤシとしてあるわけだけど、それはあくまで舞人をトランス状態にさせ、「神遊び」の状況を作り出すことに意味があるので、そればっかりが走ればバランスが崩れる。

ひとつバランス崩れれば、神遊びにならないし、みんな気になってもっと崩れる

師匠がオーケストラ、というのはまさにもっともだとおもう


その形態というか…「マツリ」の姿が時代や場所によって人やモノを変えながら今なお続いているのは面白いかも