舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

ギシとマア

師匠に神楽に出てくる兄貴分、弟分の表現についてなるほど!となったことがあるので、メモなど。

なんで同じ兄弟なのに、「日本武尊」は兄ぎし弟ぎし、「八十神」では兄まあ弟まあなのかなあーと思っていまして。

推察だけれど、という前置きがあって、蝦夷が転訛してエギシと呼ばれ、エギシ、オトギシになったのでは、と。
エミシ→エビス→エビシ→エギシみたいな?
私にはまだこっちの地域での転訛の法則とかわからんので、こっちで生きている師匠がそうっていえば、ほほうそうかあとなるんですが。
出雲の方も、イとウの音が非常に曖昧なので、全くあり得ないとは言えないんじゃないかなあとか思ったりして。

駿河の地も都からみれば東国、蝦夷の地。
エギシへの転訛があったなら、兄エギシ、弟エギシから口伝の過程でエが吸収されたのかなーってかんじ。


たいして「八十神」。
いわれたのは、口上のなかに「継兄(ままあに)弟(おとと)なり」とあり、それが訛って兄まあ、弟まあとなったと推察しています、と。

ままあに(古語ではまませとも)のママとアニの順番がどこで入れ違ったのかは皆目見当つかずですが、全く不自然なこじつけでもないのではないでしょうか。

ただ、もし、この仮定がまるっきりの大嘘でなければ、「ギシ」も「マア」もある立場を表す記号ということなので、「日本武尊」において、兄まあ弟まあはなり得ない。ヤマトタケルの継兄弟ではないから。同じように「八十神」で兄ぎし弟ぎしはおかしい。八十神はどうやったって蝦夷ではないから。


これちゃんと論拠示そうと思ったら言語学と統計調査みたいになるのでしょうか。


結局のところ思うのは、何気なく疑問に感じるのはヨソモノだからなのかもしれない。でも、それに推察ながら答えを聞いたとき、ハハアなるほど、となるのは、実際にその土地で育ったものから、なのですねえ
いくら情熱的に調査研究をされとっても、実際に土地に生きるひとには勝てません


ただ、土地のひとの言葉がすべてかと言えばそれも違って、鵜呑みにするのは、ちょっと危ない。主観だから。

面の話

面のめも。

一番軽いのは、桐。
ただ目が荒いので、おもてに和紙をはり、胡粉を塗る。

能面は、小さいから檜を使う。檜は目がこまいので、おもてにそのまま胡粉を塗れる。

石見神楽面は重いのが多い?ので、桐ではなさそう?
当時の動きを考えると、集落とかの近くに何が生えていたのかによって材質が変わってるんじゃないかと推測。


張り子人形や和紙という文化は広くあるのに、面についてはそれ方式の面が他に見られないのも興味深いですね。
長浜面の脱かつ方式もだけど、市木面の型からはずす方式も聞かん。

木彫りは大型面には向かないけど、長期保存には適する。
その点、出雲の方の「三韓」とかはどうしたのかしらってかんじね。

和紙面、とくに長浜面は、神楽面の大型化や大蛇の蛇頭などの造形の発展に寄与したけど、水に弱いし朽ちるのが顕著。型がある限り量産もできる。


和紙とか張り子人形の、文化あるところの面を見たらまたなにか気付きみたいなのがあるかなあ

スッキリ頭モッサリ頭

ガッソについてメモほど。


禿に近い毛頭というか、連獅子?とか能だったら猩々?とか?モッサーとした頭のやつに使うのはヤク。ヤクは牛。チベット側のほうなのね。
あ、鵺も、ということになるのかなあ。

ヤクの毛は唐の時代に入ってきて、戦国武将の装飾品に使われたとのこと。
ほいで、なんでかわからんけど、新政府時代にはいって、黒いのを黒熊こぐま、白いのを白熊はぐま、赤いのを赤熊しゃぐまと呼ぶようになったと。牛だっちゅーねん。なんで熊にしたんじゃ。熊の毛皮使うとしてもそんな毛長くないでしょ!

それで、浜田界隈では、しゃぐま、と呼ぶのがベーシック?っぽい。
赤毛が安く手に入って使ってたからとか、なんか理由があるんでしょうか。わかりませんが。


塵輪」の鬼ちゃんは、平ガッソが伝統。
めっちゃ固そうというか、しっかりしてるなーと思ってはいましたが、シュロの皮を梳いたものとのことで、納得。
馬の尻尾や人毛とかが手に入りにくかった所以とのこと。
立ちガッソも張りがあるのでシュロがいいらしい?
あれは毛だと思ってたので、へー!ってかんじ。

鬢や髭は女性の人毛とか。
でも、女人を避ける思想あったろうし、呪いに使うこともあるようなモノなので、どうなんかなあって。
人毛のかつらとかはあるけどさ。
個人的にはオエエエって感じ。

シュロってあちこちにニョキニョキ生えてるんですかねえ

高千穂では、麻の栽培が盛んだったのことで、それもあっての麻なんだろうなあ。


ちなみに、岩手の鬼剣舞は、立ちガッソっぽい頭。あの筆の頭みたいな。
とにかくそれを、毛采けざい、というそう。
別名しゃぐまとも、という記述も見られたけど、使っているのがヤクの毛なのかシュロなのかよーわからん。もうちょっとリサーチの必要ありですね。

ガッソも語源が気になるところ。

はらうこと

普段、舞法について習うことはしないのだけれど、シコ踏みの足運びをちょっと聞いて。
「シコ」は、踏みかたは違っても相撲の四股でしょうね。

四股とは、本来大地を踏みしめて邪悪なものを鎮める、あるいは大地を揺り起こして豊作を約束させる、という呪的な意味合いをもつ。
だから、奉納相撲ってあるんですねえ。
塩まいたり、柏手打ったり。
相撲を奉納するとこって、神楽が盛んでないとことかなのかしら。そこまでは知らんけど。
また、そういう「踏みしめる」ことについての効果期待があるので、各地の神楽の足運びについてもその動作は入ることが多い。

どすーんってやると、足元でいろんな黒いものがうわああーっひええーってなるイメージ。
意味わからんね。
あ、仁王像と足元の悪鬼みたいな。


神楽の場合、左右に行きつ戻りつしながら円形を描くのかな?

あ、そう思うと、退けたい対象って、大地、下にいる感じなんでしょうか。
下から悪しきものがやってくる。
涌いてくるみたいな。

でも、石見神楽は、空から、上からやって来る悪いものもわりといますね。
八幡信仰八幡信仰言うてはおりますけど、不思議っちゃ不思議。弓矢も飛び道具だから、撃ち落とす感じ。

剣は、草薙の故事もそうだけど、上のものというより下のものね。
あ、上総介の口上にもそんなんありましたね。

上から来る系のほうが時代的には後なんかなあ。
でも武器としては縄文弥生からありますよね。剣の方が古墳とか後っぽそう。

でも、鳴弦って古かったような。

信仰?悪魔祓いと武器の関連性の時代考察みたいなのないかな。

月の明るい夜

今日は、しらじらと明るいですねえ。水平線も、山際も、宍道湖も。月の光の道が、海や宍道湖に出る夜が好きです。だから、水辺のある土地がいいかなって思う。
宍道湖が浜田にあればなあ~
欲張り。


休前日の夜に強行軍でながはまさん。

ちなみに金曜も土曜も日曜も日帰りでゴーゴーウェスト。さすがにアホなんかなって思うけどね、郷土芸能祭り的なので宿がないのですよ。
見た感じ食指の動くようなものは来ならんのでそっちは行きません。やたらめったら行くわけではない。


ながはまさんね、眠いからとりあえずメモほど。

「天神」の随身が口上言う辺りから「塵輪」「鍾馗」「黒塚」の上総介たちが出てきたよーのところまで。このあと多分「恵比須」「大蛇」かな、

大元のお宮だけど、いろいろ、難しいのかなあ。
なんたって子どもが多い。ながはまさんもビックリなくらい。

本当は、儀式舞を見たかったのですが、定時に飛び出して間に合わず。しかもおっそい車ばっかだし。

でも、「塵輪」と「鍾馗」見られたのでよかったです。「鍾馗」と「黒塚」は初めて。

塵輪かあちゃんほんと好きだなー。あの悪そうな顔。
一番好きかも。
今日は比較的近めで見られたので、二枚舌もよく見えまして。でもなんで二枚舌なんかな。
横から見ると、舌やけどしてアチッてなったときの角度に反り上がってる。

鍾馗」は、また師匠とお話してからにする。

「黒塚」はゆるーい。けど、ベタな感じかしら。嫌いではない。
悪狐ちゃん女バージョンは、やけに頭でっかちやのー思ったら、角隠しのなかは平ガッソでした。そりゃ膨れるわ。

眺めてたら、お外まで出てきて、気がついたら悪狐ちゃんが後ろにおられて、ザイをふりふりしてた。風圧!
近くで見られたのは嬉しい。

とりあえずいまは、そほど。

前情報と言うか、先入観あって、ながはまさんはずっとみたいと思うていたのですが、初めてまとまっていくつか見て、多分、先入観なしでも、私は好きなほうの神楽かな。
なんともいえない、空気感。
今となっては、昔なつかし、みたいな感じかもで、素朴、に入るのかもしれないけれど、あの舞、あの面、あの装束で初めて舞ったときの、衝撃はいかばかりかと思うのです。


でも、でも、私の本当の師にはならないかな。多分。憧れの師にはなるかもだけれど。

師匠と師弟論について議論したりして、それも改めて考えたりとかしたので、布石として。

とりあえず今日はもう寝る。

型カタ型カタ

ダブルお父さんのお話を聞いていて、舞は型から入ると下手なんよ、型だけじゃブサイクなんよ、というふうなことをしきりに言われておられて。
それでも型は大切だよなあと思う反面、自分もそれは感じるところでもあるし、神楽講習会の時かな?講師の方も、型のコピーは劣化するだけ、と言われていたなあと思い出してですね。

狂言の野村親子とか、「型」は大切というようなこと言っていたけど、どういう意味合いなんだろうかとちょっと調べてみた。

簡単にいえば、「型」を己の身体に重ねること。己の血肉としてしまうことなのかなって。
「型」と、本来は相反するような「個性」が絶妙にあわさって身体表現としてたち現れてくること。


野村父の狂言から溢れ出る凄みは、意図せずに「型」から個性がはみ出ていること、なのだそう。「型」でありながらそれを感じさせない自然さ。
自然さとかいうとなんかつまらんけどさ。
それほどその人自身と、「型」とが融け合ってる。


一度にあれもこれもやっていたら、うわべ撫でしかできない。なんでもできるけど、なんにも残らない。

ただ表面上のコピーじゃないんよね。やっぱり心を打つのは。血肉となったものを見るから、すごく衝撃を受ける。
「型」でありながら、その人そのものを見るから、生きているから、心が震える。

それは、役における感情表現とかではないのです。
感情とかない儀式舞で人の心を打つことはできる。
それは、所作をなぞるだけでは到底無理なのだけれど。うまく言えないなあ。

多分、巫女舞の類いがちょっと苦手なのは、どうみたって所作をただなぞってるだけのようにしか見えなくて。一生懸命練習しているのだろうし、奉じているのだろうし、小さい子達にそこまで求めるのは酷なのだけれど、逆になんでそういう子達にやらせるんだろうって。本人達は訳もわからずということもある。
まあ稚児とか、そっちの意味合いもあるかもだけど。

どれだけ所作を、言われた通り正確になぞれても、人の心は打ちません。個性がない。中身がない。その人自身の不在。

そこまでいくためには、磨くこと、何度も何度も繰り返して身に付けていくことがないと、いけない。
口でべらべら説明するとか所作や言葉で自己アピールするとか、そういう問題ではない。


スマホからだとうまく引用できないのですが
文化デジタルライブラリーの狂言の項に
「まず大切なのは、正しい姿勢と基本の型を身につける事です。一見簡単に見える動きも、日常的な動作とは全く異なる緊張感を体の内にはらんだ身体表現であり、一つ一つが身につくまで、練習を重ねます。」
とあって、はあこれだろうなと。

神楽でもいえるんじゃあないかしら。


基本を磨くこと。
でもこれだけじゃあ足りないとは、野村息子も言っておられることで。
正解がないから、「なんぞや?」を常に問い続ける。本質を逸脱しないよう、自らに問いかけ続けながら、時代に合わせた答えをさがしていく。迎合と見られるかもしれないけど。

それでもそれでも、結局のところ、自分の身の内にあるものからしか、生まれてこないのよ。
先天的なセンスもあるし、後天的な努力、蓄積がモノを言う。

それ以上のものは出てこないのよ。

これは、自分が仕事をしていても感じること。己の引き出しにあるものからしか出てこないし、ないものはどっかから取ってくるしかない。でもそれは模倣にすぎない。つまらん。

だから、自分の持ちうるものを磨くし、常に問うし、時にはよそを見るのかもしれない。でもよそを気にするより、やっぱり磨くこと、問い続けることなのかなって。

うーん…堂々巡りみたいな感じになってきた。



凄みとか、厚みとか、歳を経て経験を重ねていないと出ないものでもあるかもしれない。でもやっぱり一つ一つを丁寧に重ねていなければ、それすら出ないんじゃないかなあとも思ったりとか。
だから、ある程度、この歳の頃はこういう演目、こういう役、とかあるんじゃあないかなあ。
なんでも出来りゃあ良いってもんではない。


人を圧倒させるのにですね、一番簡単なのは、視覚・聴覚で訴えることだと思うですよ。
目に入りやすい、残りやすい仕掛け。
大きい音。勢いのある音。
そういう人達が徒党をなしてバルバル往来を行くこともありますけど。

でも、それで真に人が感動すると思うのは大きな勘違い。
いつかは飽きられる。
しかも、その圧倒させる技は道具や勢い任せで、自分はいないから、自分には何も残りません。年老いた時、戦える武器が何もありません。

それは、悲しいことです。
たとえ歴は長くなろうとも、その身はなんと薄っぺらいことか。

人はそういう者を、体よく使いはしても、師と慕うことはないのではないでしょうか。
見ていればわかるから。
陰で笑うてるかもしれない。


恐ろしい。恐ろしい。


師匠の言いたかったことは、そういうことではないかもしれないし、そうだったのかもしれない。聞いていないからわからない。
舞わないものに教えてくれるかもわからない。


そも、では私には何が残るのか
舞わない。身の内にない。頭でっかち。
わかりません。
でも、私は私なりに「神楽とはなんぞや?」を問い続けるほかないのです。
まとまりないけど眠くなったから寝る。

秋、むらまつりみたいな。そのに

楽しみにしすぎて4時前に目覚めてしまった。ここから頑張って二度寝したら寝過ぎるやつ。お子ちゃまか!
長い一日になります。

昨日会社で明日はどこ行くの?っていわれて、なんか可部のへん、だけど私が行くのは浜田。って答えたら、普通に54号線で行けよ!とかなんとか。だって場所わからないもん。楽しみー。


たくさん見ているわけではないので、たまたまかもしれないし、一概にはいえないのだけれど、邑南の神楽は「うちはうち」の気風があって好きです。良くも悪くもなんだろうけれど、嫌みがなくていい。
それは、県境だからかもしれないし、広島の方を見ているからかもしれない。うーん…自分を高めるため正統性を主張するために、他者を貶めるような物言いをしないというか。

まあ、いろいろ混じりすぎてどこをどうといえないのもあるのかしら。

師匠からの話は自分的にはすごくなるほど!ってなったけど、裏付けないからまだ秘めておく。


とりあえず、そほど。


ほいで26日は東の亀さん。日にち縛りだから。
かさなしじんじゃ。持田の学校の裏のへん。いつも暗いから迷子になる。

打ち合わせがあったので「三奸」の途中から。
本当は19:30スタートらしいのでめもめも。あたまにもう一演目あるんでしょうね。清めの舞みたいなのかなあ。

今回は子どもが多かったので、張り切っている感じでしたね。あと、だいぶんハキハキというか、口上を分かりやすくされてる感じがしました。アドリブめっちゃ、めっちゃ。

これもまた、村祭り。
東の亀さんは、そのつもりでいつも行く。

新羅の王かなあ。一番でかくて迫力しかないお顔の王が、宿禰のまだまだ立ち合うか?の問いに対して答えるのですが、準備体操で身体が温まったのでもう一戦!とか、今日は声援が少ないからもうやめる!とかいわれるので毎回楽しいです。
今回は身体が温まったので!と味方の子どもさんがたくさんいるので!で3,4戦ほど。
場外乱闘も定番になりつつあるような。

蕎麦屋の父ちゃんは、子ども達が舞殿上がって、王達にビビってるからか?隣に座って笛吹いてた。あの父ちゃんは一体何者なのかしら…ただの元蕎麦屋の店主って感じじゃない気が…

で、飴バラバラして、おしまい。

「悪切」ここで帰るのも多いけど意外に人が残る。

何かを唱えながら鈴を鳴らしてから切り始め。
唱えているのははじめて気がつきました。呪みたいな感じで、小さくて、到底聞こえない。
あと、五方に何かを撒くのですが、サイズ的に米かな。

あれは、能舞の立ち合いとは全然違う太刀さばきなので、うまい人がやられるのでしょうか。でもその太刀のふり方を立ち合いには組み込まれなかったのも何か理由というか、あるのかなーとか。

そういえば、立ち合いは神の最後のトドメまで刀系は出してこないかも。

ふーむ。また娘さんに聞いてみようかな。

あ!あとまをうすっていってた!

話は戻って。
神側を向いて、
これ○○にこれこの地に向かって悪あり 胴取りが反復、~~に向かって悪なし
ナントカカントカ水難病災 諸々の災いあり 胴取り、さような諸々の災いはさりとなし
かな?という問答というより言の葉による邪気払いみたいなことを太刀舞とあわせてしますが。
○○は
・東西南北中央
・氏子、崇敬者、家族
・願主、家族従業員
が入るので、三回同じやりとりをしているよう。
うまくまだ聞き取れません。

だから、これが願主が多いとこの部分が太くなるのでしょう。

そういえば、花祭も一晩舞い狂ったあとの日中は願主の舞を願主がいるだけ舞います。それで納めた天蓋をひとつ持って帰るだったかな。前の晩に神がくだられたやつね。
願主が多いと昼過ぎかな?までずーっと舞うから結構眠いやつ。

昔は、願主が多かったりしたのでしょうか。わかりません。


ほいで、「八重垣」
何回目かにしてはじめて気がつきましたが、スサノオは一言もしゃべらんや。
最初はスサノオに仕え奉る末社の神がカタリだし。大蛇さんがしゃべるし。

出掛けの歌は、国常立命がどうたらから、天地開闢・国生みからとんでスサノオの大蛇退治・八雲立つ~三十一文字定めたまいし和歌の ありがたき教えかな(?)って、ようは神話前半を語っているっぽい。

ただ一個気になったのが、国生みのところで「もういち人 蛭子スサノオとまうすなり」っていってた気がするんですよね…
なぜヒルコ=スサノオなのか…全然わからん。どっちも外れもんちゃ外れもんだけど…
本当にそういってるかもわからないので、要確認。

あと安定の酔っぱらいおじさんな大蛇さん。

スサノオが酔っ払ってうつ伏せ大の字な大蛇さんの背中をワシャワシャ榊でちょっかいだすとこがチャーミング。

あ、スサノオしゃべったわ。
大蛇にてはなきや、とかひとことふたこと。
大蛇さん酔っ払ってるわりに饒舌、というか泣き言というか恨み言。
無念のほど 一太刀 恨みばやと思うなり、って。
悪狐ちゃん系。いや、ナガスネヒコかな。

でも最初は末社の神が立ち合って、最後のトドメ一発をスサノオがやるので、末社の神は随身(神?)ってことでしょうか。


演目がいつも同じなのでちょっとずつ聞き取れるようになったりとか、あるんですが、同じだけど同じじゃないんだなあっていうこともつと感じます。

村祭りの良さはもちろんあるけど、先行きの不安もあったりとか。楽しいだけじゃ、守れない。
正統とか正解とかないからこそ、悩ましい。いとしい。でもいとしいからこそ、ちょっと切ない。


寄るとこあるしそろそろ出立の準備しましょうかね。
今さらちょっと眠い。