舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

師匠のことば。

鏡開きしたお餅をもらったので、鍋のつもりで作ったら、なんかむしろお雑煮になって、鍋とお雑煮の違いについて考える冬の夜長。

風邪引いて以来、胃腸が不調なのか、食欲がなくて食事も不規則なので、やさしめに。切り干し大根としいたけがいい味出しとる。喉は相変わらず、潰瘍なのかな、それ系で香辛料が染みる。番茶も沸かして、うまうま。
…田舎のおばあさんか!

しいたけは煮ると縮む。
しめじは変わらない。



師匠から書き残してほしいといわれたこと。
必要だと思うから、いわれた言葉をそのまま。
時々このタイトルでいわれたことそのまま載せてもいいかな。肉声みたいな。それも大事な気がしてきた。


ずっと、思い考えていたことに、結論がでました。
ずっと思っていたことを伝える文言です。

神楽の舞手を考えるとき、昨今は器用な人物に出会うことが多くなったし、実際に沢山増えてきました。
反面、『舞』の上手い者に出会うことは少なくなりました。社中は違えど、先輩の中には多くいます。



この話をされる前の日とかに、たまたま、お父さんと車中で、直接習いもせず、動画見て真似できるその能力はスゴい、という話をしていたこともあり、私は、神楽が身のうちにない者だけれど、すごくすんなり呑み込める言葉だったのでした。
でも、神楽に限らず、なんとなく、世の中が、そうなっているような気がして。

帰省の飛行機を空港で待っている時に、実に十年ぶりくらいにお笑いの番組を見て、そのときもなんとなく、感じたこと。
人真似がベースにあるネタが、なんと多いことかと。
昔から物真似はあったけどさ。
器用ではある。
でも、それって、もとの人が過去の人になったら、一緒に過去のものになる。残らない。

本質的に人を笑わせている訳ではないと思うの。

真似が似ているからとか、ちょっとの侮蔑とか、器用さに対する笑い。


興味ないからわからんですけどね。
あらゆる事象について当てはまる事柄だと、個人的には思うのです。


もとのものが、ニセモノであれば、時代と共に消えていく。ホンモノであれば、ホンモノは後世に残る。でもそのオマージュ作品は?どうなんだろう、と思うのです。
器用に真似るほど、ねえ。


器用さも能力ではあります。

でも、器用という能力に甘んじて、思考し続けること、探求すること、極めようという思いが蔑ろになるのであれば、あの人は器用だね、で終わるのではないでしょうか。
いつかは飽きられる。
いつか、人の記憶から消えていく。


不器用でもいいと思うのね。
貪欲に、思考し、探究して、追い求めるからこそ得られるものがあるから。
そこからたち現れるものが、人の心を真に動かすと思うから。


ここまできて、ああ、前に師匠がいっていた舞を磨くこと、基本を磨くことに繋がっていくのかあ、とひとり納得。
萬斎さんの例のやつね。
http://namaaa.hatenablog.com/entry/2017/10/30/222759
これこれ。自分の回顧用にはっつけとこ。


基本を求めて求めて極めようとして、己の身体に染み渡って、型が型でありながら、その人そのものを写し出す。
「人」が映し出される。

逆をいえば、映し出されてしまうから、己が見せんとする役柄、人について、また思考して探究しないといけない。
達成の見えない、しんどいの連続かもしれません。
謙虚でおらざるを得ない。達成がないから。

でも、だから、見る人の心を動かすのは、たしかなのです。

真の舞いあそびって、きっとそう。


器用者を育てたいわけではない、とは、師匠でなくとも、古老や、先輩が思うことだと、私自身としては思うのです。そう思っていてほしいという願いにも似た思いだけれど。


器用な舞は、箸休め程度にしかならんのんよ。
記憶に残らんのんよ。
はあ今日はいい神楽を見たなあ、にならんのんよ。

届くかなあ。