舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

祭りのことすこし

なかなか神楽について思考を巡らす余裕がないのですけれども、テレビでお祭りの番組見ていて、やっぱり石見神楽は特異性があると思ったのです。
ショー化、エンターテイメントによりすぎ、って断罪してしまうのは簡単なんだけれども、それだってそれをプロデュースするというか…確立させるためにはセンスとか、美意識?セオリー?が不可欠なわけで…

太鼓とか芝居とかと比べれば、やっぱり神楽なんだよなあ。人にはよるんですけど、その音、所作ひとつひとつ。
流れているのは、たしかに、紛れもない神楽の血。

でも、面への信仰は、あんま見られない気がする。
あと、稚児も見ない気がする。

だからといって、面をつけることの意味については、体感で理解しておられる人が多いので、面の意義がこの土地では違うとか、そういうわけではない。

稚児なあ…子ども神楽は全く違うものだしなあ。

うーんまとまらん。ねむい。わからないことが多すぎるのです。

五穀


八調子地域における大元のお祭りで「五穀種元」は、「天蓋」「五神」などに並んで重要な舞のひとつなのですが、緩やか~に進んで、かつ内容的に素人ウケするものではないからか、なかなか夜明かし舞以外ではやりにくいのでしょうか。でも、大切な舞。
なかなか機会がなくて、無くなってしまったら嫌だなあと思うのです。
むー…見たいなあ。


神楽において五穀豊穣は、非常に大切なことがらであるわけで、その「理」をユーモアに富んだ表現で伝えていて、先人達のその表現力に感嘆せざるを得ないのです。
花祭とかでの類似の舞に比べると、整然としている気がします。

うーんと、あのちょっとおゲヒンなやりとりとかも、むしろあれが、五穀豊穣において大事なもので…母体信仰といえばいいのかなあ。男女和合そのものが、五穀豊穣の祈祷と直結しているというか…なんていえばいいんだろ。
土偶の時代から続く大事な信仰というか、儀式というか…

あれを、教育上悪影響だとか、ゲヒンだとか、神経質になる人がおられるのもまた時代なので仕方ないのですが、それを「なかったこと」にする、黒歴史的な扱いにするのは、日本人の感性や信仰の根底を切り捨ててしまうことにもなるわけです。
祈りや信仰って、人間って、そんな潔癖じゃあなくて、泥臭いものなのにね。

類似する舞を舞うところは、だいたいどこでも、翁と嫗とか、ひょっとことおかめ…な気がします。
そこである種、非現実性をかもしているのかも。


花祭では大根とすりこぎで味噌塗ったくられます。
塗ったくる系、あるよね!あ、あんまりこっちでは聞かないかもなあ。どうなんでしょう。
美保関で墨塗ったくるのは、無病息災だったかな?ちょっと意味合いが違うのかも?
いや、塗ったくると無病息災に変わるのか?
わからぬ……


ますだの「田植え舞」だったかしら。復活させたやつ。
あれは、田楽というより「五穀種元」のますだバージョンだと勝手に解釈しとりますが。
ちょっと長くて、眠くなっちゃったりもするのですが…あの牛さんが結構いいキャラしていますね。

そういえば、ますだでも夜明かし舞で「五穀種元」って舞われるのでしょうか。というか、全体的に舞う機会が減っているような印象。

なんか、生きにくい世の中だなあ。

芸事につき

そうそう、年末に白州正子さんの『両性具有の美』という本を読んだのであります。
なんで数ある著書であえてそれなのか!って感じではありますが。超、端的にいえば師弟の話とか、あったので。


世阿弥がまだ藤若と名乗っていたときに、父の観阿弥と諸国をまわって猿楽の興行をしたり、ほかの芸事の人たちと関わったりしながら様々な芸や人の立ち居振舞いを盗み、自分のものとしていたのだそう。

もともと、猿楽は「もどき」物真似の芸。

血筋や環境含め、やっぱりそのセンスをもっている、ホンモノだったから、観阿弥世阿弥が能を大成せしめたのかも。


また読んでいると「芸道においては教えられることはわずかな技術だけで、盗む以外に身に付ける方法はない」から、盗むほかない、みたいなニュアンス。


たぶん、白州さんもおっしゃる通り「芸道」、芸事について、根本同じようなことは言えるんじゃないかなあと、感じています。神楽もね。
萬斎さんも、たしか、盗みが大切みたいなことはおっしゃってたような。
まあ何事も極めようとするとそうなるのだろうか。


でも、なんというか…ちょっと、人によっては誤解を生みやすい表現でもあるなあと、私は思ったりして。

というのも、もともと持っているセンスに加え、そもそも基本、土台、基礎、骨がなければ、どんなに良いものを盗んでも自分の芸、所作、肉にはならない。
ただの悪趣味なコピー。あ、「リスペクト」さんになるわけだな。

だからといって、基礎となるものは、全部が全部受動的に教えられるもの、与えられるのを待つものではない。常に能動的に、自分から師に教えを請うて、習得していくもの。

かつ、言っても反発して理解しなければ師は言わなくなるし、一度言って理解する耳と頭と素直さがあるなら、何度も言わなくても解るし、そのうち背中を見て盗んで学ぶから、結局「教えられるもの」は「わずか」になる。

ということをいいたいのかなあ、と思ったりして。

なんともとりとめのない、まとまりのない思考をそのまま書き連ねていますけれども。


というか、結局技術…型?や決まり事はもう決まってるんだから、それはたしかに教えられるけど、その精神性とか向き合う姿勢とか型を支える諸々は、自力で習得してちょうだい!にやっぱりなるよなあ。

きっと世阿弥は表現する力があったから、文字にして後世にその言葉を遺しているけど…それを本当に理解できるかは、受け取り手のセンスや土台によるし…
そもそも口下手な師や古老はどうしても「黙して語らず」になっちゃうし…
それで一生懸命伝えたくても反発されたらいやになっちゃうし…


なんかだんだん言いたいことわからなくなってきた。



盗んで自分のものにして、自分の「芸」「舞」「立ち居振舞い」「所作」を高めたいほど、貪欲。あるいは謙虚であるともいう。
まだまだ、まだまだ、って。
師を超えてやりたい、でも超えられない、って。

自分はもう極めたわー、ウマイわーって慢心が一番残念。
慢心のある舞、姿は、はた目で見ていてやっぱりわかるし、美しくない。


とかいって、自分は芸事に全く通じないんですけれどもね。えらそーよね。

でも、ライフワークとして、神楽と向き合い、それを見つめ続ける上で、学びを深めることを貪欲に求めていきたいし、師や古老の言葉を請い、盗めるものは盗みたい。小さな小さな声に耳を傾け、時には引きずり出してまで聞いておきたいのです。
私はもう神楽についての見識を極めた、と思った途端に、きっと師たちは口をつぐむだろうし、つまらんものになるでしょう。


どうしたって知らんこと多すぎて全然極められんわい。

舞を殺すな

胴とりは、一生懸命打ってはいけない。自分を見せることを考えてはいけない。

師匠が、いつもおっしゃること。

自己中心的な胴は舞を殺すとも。



たまに、音響なんかは、あーあと3つか5つくらい音下げてくれたほうが気持ちいいんだけどなー音割れてるしなーって、狭くて閉じた場所なんかでは思いますけど、今日の神楽は狭くなくても最悪。


胴ばっかりがぎゃあぎゃあうるさくって、見ているこっちも舞に集中できやしない。
というか、全く頭に残っていない。
うるさいうるさいうるさい、ってずーっと頭のなかそれでいっぱいで、途中から我慢できなくてかた耳塞いでしまった。
うるさすぎて「岩戸」でほとんど鈴の音が聞こえないとか意味がわからん。


胴とりが舞を生かさずに殺してどうする。
太鼓の音も殺す。
あれはもはや悲鳴だ。
ああいう胴太鼓は力いっぱい打てばいいものではないはず。

逆にうまく力を抜いてスナップで響かすものなのでは?わからんけど。

マッチョ自慢か?


それが伝統だとしても、私には合わないみたい。

もう今度こそあそこは見ないかな、と思ってしまった。
あれを良いと思う人が見に行けば良い。



はあ。


いろんなことがあって、どうにもイライラ着火点が低い状態で何してもムカムカするようなコンディションというのも、原因としてはあるでしょうが。
それにしたってマジでもーガンガン音ばっかり響いて舞がこれっぽっちも入ってこなかった。




あと、風の噂では、ここでつらつら書き付けていることを、利己的なたくらみで、利用しようとしている人がおられそうな気配あり。またよけいにイライラムカムカ。
知らんし、わからんのですけど。

ようは、パクリ。
でもパクリって、犯罪ですからねー。

というか、ここにあるものというのは、わたし、という20数年のある集積物が、その収集してきた本や実地での見聞と、感性と妄想でできた、アーカイブなわけで。

誰かの探求のヒントや問題提起になればとは思うけれども。

いまある見解も、しばらくしたら変わっているかもしれない。何故なら常に現在進行形で収集しつづけているから。



まあ、結論を申せば、機嫌が悪いです。

ししめも

「神楽」と呼ばれる民俗芸能は、アイヌ文化圏と琉球文化圏には存在しないと、かつて教わりました。
その名前を持つものはヤマト文化圏といいますか…そっちのほうの芸能なのです。
中央の宗教者の影響を少なからず受けています。


でも、どうも琉球にも獅子舞があるらしい。

東風平こちんだ?八重瀬町?という場所のともよせ地区が有名?

旧暦の8月15日ということは、えーっと…豊年祭だったかなあ…お盆に関わる大切な時期だったと思います。

歴史は180年近くほどとのことで、対疫病のニュアンスと、五穀豊穣の祈りが主らしい。


なんか、…毛むくじゃらー
モップ系わんこといいますか、馬のようにも見えるといいますか…なんとも奇妙な風貌と動きで、どちらかというと獣っぽいかも。
どこかの地区の獅子の動画を少し見たら、前段で「頼政」よりさらに気味悪い感じの猿が出てきて、やっぱりこどもが逃げ惑っていた。サルタヒコから転じてるんだろうけど…ちょっとあれ近くで見たら怖いなあって感じ。

でもともよせの獅子を少し見たら、そっちもなんとも不思議ではありますが、岩手の社風神楽系の権現様にあい通ずるようなぷりちーさも感じるかも。

ふしぎだー。


琉球王朝時代だけど、麒麟獅子とか伊勢の大神楽とか、創作者はなんかしら見ていた可能性があるんじゃないでしょうか。


アイヌ文化圏にも獅子はいるのでしょうか?


なんだか、また調べてみたいものが増えてしまった。


おもしろいなあ。

さんばさんば

帰りました。ふうーっ
いつかは、島根でのお正月も体験してみた
いなあ。

それで、「三番叟」でなんで対なのかな?と思ったかと言いますれば、足の運びをみていると、客席から左側奥、橋掛のあたりから、対角線上の柱、客席から手前左の柱へ、そして中央、という動きがほとんどなのです。
三角形と垂直線?
たしか能もおおよそそうなのだけれど。
「三番叟」は踏み固める呪的なニュアンスが強いので、より際立って感じます。
特に中央でダンダンッて踏んでた気がするけど、よくわかんない。

でもそうすると、奥が、手薄になるんですね。

もし客席が東が左なら…秋白大王と冬黒大王ポジション。


だから、塩祓みたいに、対になったり重なったりする相手がいたら、四方と中央が綺麗に踏み固められるのかなーって、思ったのです。なんか世界がつくり上げられそうな。


実は、案外「父尉」とか「翁」がそんな動きあったりするのかな。

そのふたつは、もともと宗教者が担っていたみたいな文を見た覚えがあります。奈良の神社に「翁舞」伝わってるし。
「三番叟」は猿楽。もどき。
ということは、その前の二番を真似ている可能性が大いにあるわけで。


うううーむ

勉強不足。


いつか、師匠と式三番見られたら見たいなー
私には絶対知り得ない感じ得ない面からの印象を伺ってみたいのです。

私は、神楽の所作とか経験、センスは持ちませんので。
違う眼でどのように見られるのか、興味があります。


もちろん、神楽と能楽は違う。
兄弟、あるいはいとこだけれども、違う。


担い手、継承の仕方、存在のありかたと意味。

パトロンの存在はつねに文化を支えてきました。
肩書きは違えども、それぞれパトロンがいたということもまた、継承を考える上では重要。

似ているけれど、違う。

違うから、どっちも生きてきた。


どっちも、生きていくために、生きる場所を別ったともいえましょう。
一方は農民や若者の手元へ、一方は国家の保護下へ。

だけれども、文化レベルの高低差なんて、ありましょうか。

どちらも尊く、いとおしい。

いとおしい。


むしろ、神楽の生きたい生きたいという強い思いが、私にはたまらなく貴くて、いとおしく思えるのです。



ふうー。

というか、神楽の担い手たちにもっとフォーカスを当てるべきなのよね。よくよく思えば思うほどに、すごいことなんだから。
お神輿の担ぎ手とはワケが違う。
こんなこといったらしばかれるかもだけど、違う。

ダンスグループなんかじゃなくて、能楽師や歌舞伎役者が浜田へ来て知ってほしいよ。
通じるところだって、たくさんあるはずだよ。
方言が通じなくたって、心は通じ合うはずだよ。

そうそう、能楽師能楽師だけど、歌舞伎は「役者」。これは余談ですが。


ううう…なんかもどかしい。

さんばそうさんば

能楽囃子、狂言「末広かり」と、まんさいさんの「三番叟」を観に行きました。
自然と笑っちゃうやつと、圧倒されて口があくやつ。
CGっていうのかな。映像を使っていて、コンテンポラリー?純粋な狂言というよりかは、現代舞台芸術って感じ。


囃子にも後見にも、小学生の頃からみていた好きな方がたくさんおられて、はっぴーはっぴー

やっぱりまんさいさんは、全身から洩れ出る気迫といいますか、全身から声もなにも出てる感じといいますか。もーとにもかくにも美しかったです。むふっ

師匠も、いつも基礎が大事、土台つくりが大切と、いっつも言っておられるので、きっと神楽でもいえることなのかもしれませんが…
一番に思ったのは、かぶく、というのかなあ、応用編を魅せるには、徹底的に基礎が身に染み込んでいなければ、できないものなのですね。ふむふむ
練習量も、経験もあって、基礎や代々受け継いできた伝統が骨として筋肉として身のうちにあり、裁量を見極める眼と、感性があるからこその「新しい挑戦」ができるとでもいいましょうか…

なんていったらいいのかなあ

伝統の世界に身をおいておられるからこそ、「なんかかっこいいから」だけで新しいことをやろうとしても、一笑にふされる気がします。
かっこよくするつもりが、かっこわるくなる。

ナマモノですから、完成することは、ひょっとしたらないのかもですが…所作が、まるで箸を持つとか歩くとかそういう身体動作のごとく本当に染み付いてるからこその、シーンで際立つその所作ひとつひとつの美しさ。

崩すんじゃないんだよなあ

私の動体視力でも追い付くスピードなのでまじまじ観察しますが、能も狂言も指の先から足の爪先まで、顔の向きも、背中も、ただひたすら座っているときですら意識を張り巡らしているように感じられます。

神楽でも、ちょっとした指先の具合とかで美しさって変わりますし、心地よい舞の方はやはりそういったことに意識することを忘れない方が多いように思います。
そこは、経験とかに慢心をせず、つねに意識。意識することもまた経験で身に付いたことといいましょうか。

去年つれていっていただいた〆の神楽ぶりに、目と耳と頭だけになった感覚でありました。むふっむふっ
案外久しぶりではなかった。



で、「三番叟」そのものについて

現在は省略されている「父尉」、能にして能にあらず「翁」と、狂言方の舞う「三番叟」で、式三番。
んーと、うろ覚えですが…ひらくときに、舞われる神事的な舞といえましょう。

江戸くらいまでは、能楽が行われるたびに一番始めに舞っていたんじゃあないかしら。
あとは子役のデビューとか、一年の始めとか、とにかくそういう「ひらく」ときに舞われます。


「三番叟」は「三番猿楽」とも呼ばれるそうで、なるほどたしかに猿楽的なにおいもします。
ま、見たことないのですが。

猿楽はものまね「もどき」の芸。

見ていると、農耕を思わせる所作がすごい多いです。
叟だから舟かと思ったけれども、違うっぽい

調べてみたら、「翁」は天下泰平、「三番叟」は五穀豊穣の意味合いがあるとのこと。
だから、田んぼでの……というかんじ。




眠くなっちゃったからいったんここまで。



ただふとおもったのが、叟が雙
二人が対で舞ったら完成されるのでは?とか思ったりして。

だめだねむい