舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

あまのかぐやま

奈良行きたいよね奈良と思ってガイドブックでイメトレしてて、イメトレなだけだからなんも調べんこ思い付くままに書きますが
藤原宮の東、天香久山に国常立神社があって、南南東に皇太神社と八幡神社、南に天岩戸神社、南南西に杵築神社、東西に春日神社が計三社ある
つまりヤマトの主要な神々が国常立を頂点に?集まってる
杵築と八幡は地図上では、国常立を中心にほぼ対称的に位置してる

春日神社が奈良に多いのは理解できるけど、偶然なのかな

京都の吉田神社も調べるのマストっていわれたけど、いまいち自分のなかではまだ腑に落ちきってない

いかなるものやらん

お題にそって、取捨選択しながらいろいろ発表しているなかで、限られた時間で、わたしの神楽観やこれまでなにを見聞きし、なにを考えてきたのか、伝えるのって無理

卒論と、ここと、あと若干の補足を見ていただいて、やっと少しはわたしの頭の中身がわかるかなって感じ
伝わらないもどかしさ

その上、あっちいってこっちいって、波のように揺れながらやってきているのだから、うまく説明できないし、可視化も難しい。というか、めんどい。

しかも、素人ながらもう来年で10年?くらい神楽についてやってきているわけで、ここも途切れ途切れながら五年近くなるわけで、
わたし自身でさえ、ここ読み返して、ははあそんなこと考えたのね!とか思う始末
その点、いろいろ面倒だけど、続けていて良かったのかな、とは少し思う、少しね
面倒事もかなり多いけど

点々とした知識の蓄積は、少しばかりはされているのだけど、それを整理しきれていないのだと思う。
技量不足


なんか、もどかしい
どうにもならん、という気持ちと毎日戦ってる

たいふ

ずいぶんと前に、雇われ舞になってから娯楽化した、みたいなこと読んで、なるほどねえと思いかけたけど、よく考えたら、自分達でやらない限り、誰かを、雇って舞を舞わせることになるのよね。

神楽師とか、神楽大夫というひとたちもいたのだから

最近ことに難しいのは、やろうとすればするほど、差別問題とも、向き合わないといけなくなる。
つまびらかにすれば、傷付く人もいるだろうし、
逆に隠してしまえば、それはそれで、何か違う気もする。
農民の文化ばかりがいわゆる「民俗」として注目されがちだけど、あくまでもパーツのひとつにすぎない。
もっとたくさんの、いろんな立場の人の畏れから始まって、苦しみや、祈りや、思いとか、うーん…まあようは人生があって、地層のように重なって、足元に横たわっている。

お互いに、お互いがいるから、コミュニティが成り立っていたはずなのに、なんか、むずかしい。


というよりも、人間が扱う技術?術?は増えていったとしても、人間の精神構造は、なんぼもかわってないんだと思う。
歴史は繰り返すとか、過去に学ぶとかいうけど、そもそもかわってないのよ。あるスパンでなにかしらの目を引く出来事が火山みたいにボコッと出てくるだけにすぎない。
と、おもう。

現時点での大元考

わたしの内蔵ディスクのキャパを大幅に上回る情報量に溺れていて、そろそろ外付けHDDに入れないと脳みそがぶっ飛びそうなので
まだ精査してないし、個人の見解でしかありませんが


まあいろいろあって、
オオモトサマ
コウジンサマ
トシガミサマ
そして、ミサキ

調べているわけだけど、どうにもオオモトサマだけ、全容が見えてこない
広く分布しているものほど、古くからあるものだと考えれば良いと教わったけど、逆に、超ピンポイントな場合はどう考えたら良いんだろう。

そもそもオオモトサマの特性が、実はよくわかっていないなと実感していて
荒神、なかでも竈門の神や、ミサキなんかは、かなり、個性というか、パターンがあるから判断つきやすい
あと、トシガミサマも比較的そっち

で、そのわかっているパターンに当てはめてみると、オオモトサマというのは、微妙に異なる特性を持っている気がする。

祟る神ではあるけども
でも昔は死者供養の神楽、注連神楽、あるいは、ミサキ神楽があったともいうから、変死者とか、そういうタマとは区別していた。

邑智郡界隈とかでは、藁蛇を重要視するけど、それはどっちかといえば田の神としてのコウジンによく似てる気がする。
一方で、どうも那賀郡で藁蛇というのは、あまりみた記憶がない。
どこだったかではじめて藁蛇を見て、これか噂のアレ!!!ってなったくらいだから。


ミサキほど対象もはっきりしてない気がする
なんか、ぼんやり祖先神、開拓神、的な

名もなき小祠たちを、明治以降とりあえず「大元さん」にしたパターンもあると思う
でも、何事もない土地にわざわざ神を祀ることはしないから、やっぱりなんらかの祟りなり、大きな人の死なり、なにかがあった場所、にあるのだと思う。

クニトコタチやアメノミナカヌシといまはされているということは、国学記紀神話への理解が進んでからなはずなので、当てはめられたのは早くても江戸中期とかそれ以降なんじゃないかな?
浜田藩本居宣長国学には関心度が高かったようだから、案外明治よりも前かもしれない。
あと、吉田神道なのかなあとも思う。これもまたよくわからん

一方で、ムラムラにある宮は、かなり外の氏神が多い
春日(藤原市)や大社系統、熱田、大三島…そして八幡

歴史的な背景で言えば、
尼子や毛利とか、大きな戦国大名に挟まれて、自分等のとこからは大きな勢力は生まれず、街道や鉱脈を狙われて、翻弄されてきた、とおもう。


そのなかで、わざわざ神代七代の創造神を「大元神社」あるいは「大元社」に宛てた理由

もしかしたら、これは完全にわたしの想像だけど
小さな小さな抵抗だったのかもしれないなって、思うのです

いろんなよその神さんがおりんさるが、このムラを作ったのは、土地を拓いたのは、自分らあの祖先
自分らあは土地の開拓者、クニトコタチの子孫として、この土地に住んできたんだ、という石見人の矜持

だったのかもなあって。

これが今現在でのわたしの想像
これからまた変わるかもしれない。



ちなみに、ああなるほどね、と思ったのは
何十年単位の式年祭の神上げの意味は、ちょうどそのくらいのスパンで「個人としての死者を記憶する人のいなくなる長さ」=「死者の個性が失われるタイミング」=「神(霊の集合体)に加えられるタイミング」だといわれて
人の本当の「死」は、生きてきた時の記憶が失われるときで、そのときホトケからカミになるのだと
昔の人の寿命とか考えて、それはすごく腑に落ちる。

ホトケから、カミに
風のひとつになるときがくる。

仏教観念と日本人の感性がうまく融合した結果そうなったんだろうな。

私見

民俗、あるいは民俗芸能について自分なりの解釈

あるムラ、集団において、ある事柄を記憶するために意図的に作り出されたもの

それは、思想かもしれないし、歴史かもしれないし

そもそも、数学と違って絶対的な公式や定義を当てはめようとすることに無理があるんだと思う
必ず、狭間からこぼれ落ちる存在がある

それが、人間なのだと思う。不完全性というか

ある意味、絶対唯一神って数学的な捉え方なのかもな、と今ふと思った。
なんとなくね。


でも、
残したいとか何かしらの心持ちを抱える人と
それに共感する人と
それを体現できる人が
同時代に複数人いないと、しかもそれに連続性がないと、残っていかないものだとも思う。

残したくても体現できなければ
誰にも共感されなければ
残したいという心持ちを持つ人がいなければ
続かない。


人は、それぞれ人ひとりの人生分の長さしかないのに
それ以上の永い時を経て今残っているというのは不思議なことだと思う
変異したり断絶したりもしてるけど、入れ替わり立ち替わり何かしらの心持ちで繋いでいってる

なんでか?
不思議



オイルランプというよりは、火鉢の炭かな。
…あ、かまどね。
うーーーーーんなるほど深い

弱くなったり強くなったりしながらじくじくと思ったよりながく燃えるもんだから


でも私自身は絶対呼吸使えないタイプだよなーって思う。
根本的にからだの端々まで血が巡ってないし
次女だし(?)

なので、諸々済んだらげんやーの髪型にしようと思ってて、今はそれだけが楽しみ
同じ髪伸ばすでもげんやーヘアーは絶対楽やんか…私もサイドが癖強くて普通に伸ばすとハグ●ッドになるんよね…ハ●リッドになるよりげんやーのほうが絶対いいやろ…眉毛ないし
これで目が大きくて、スタイルが良ければ良いんだけど、まあそれは生まれ直すところから始めないといけないんで

もう女は捨てるんだ…要らねえよこんなもん糞食らえだよ
とっとと早いとこしにてえよ
だから今だけやってみたかった髪型にしてやるんだ
今までの自分じゃないものになりたい

自分で自分を良しといえる自分になりたい
どういう姿が、どういう私が、どういうふうになればいいんだ
どう振る舞えばいいんだ
どう生きればいいんだ
どうして私は普通になれなかったんだなりたかったし、当然なるもんだと思っていたのに。平凡でつまらない人間だから、それらしく、過ごせるもんだと思っていたのに

なんで何一つ叶わない

顔も体も頭の中も人生ももうなんも要らねえ

どうせ髪型だって思うようにはならないんだよ
わかってる

私の心の火は冷や水ぶっかけられてとうに消えてしまったよ

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です

その中で一番すぐれているのは愛です

小さい頃からの刷り込みとは恐ろしいもので、嫌でもずっと覚えてはいるものだけど、正直どういうことなんかなあと思っていた

宗教なんだから信仰推しやろ、みたいな

間違った考えかもだから、あくまで薬でぼんやりしたボンクラ頭が考えることでしかないのだけど

物理的な攻撃というか、生命の危機を感じたときに

自分の命のために自分の命は懸けられない

生きるんじゃなくて、死ぬ方のとき

でもたぶん、他人や、愛する人や、神になら、自分の命を懸けて、投げ出せるということになるんだとおもう

このときの神って、たぶん、人格神になるのかなって

人身御供みたいなものでは、水神とか、自然神もあるけど、ある程度神の方に意思というか、人格(神格?)がある姿を想定しているというか

もっと原始的な「力」の神は対象でないような気がした

神道多神教ではあるけど、国家神道ではある種の一神教的な側面を持ってると思う

神の名のもとによる尊厳を守るための死

他人のこともひどく傷付ける、命を奪う場合がほとんどだから、それを容認(黙認?奨励?)する神は、わたしは悲しく感じる

本当にあなたを愛する人をあなた(神)は愛していますか、と問いたい

神の名のもとに行動決定することが信仰というのなら、それは自己愛を超えた神への愛ということになるのかな

その、行動とそれが引き起こす結果については別として

一方で、他人のために、行動決定をするのなら、それはラブであれ、アガペーであれ、愛と呼べるものなんだろうな

死ぬ間際に、愛する人を思い浮かべるのは、人への愛

神を思い浮かべるのも、神への愛

一抹の後悔やなにかしら己のことについて思いが去来するのも、自分(あるいは誰かに向けての)に対する愛

それはエゴの愛ではないと思う…たぶん

えんむくん思い出したら自信なくなったな

ま、とにかくそうなれば、愛が残る