舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

いま考えていることについて

夜が来て、朝が来るのが苦痛
もっと苦痛な昼を過ぎたらまた夜になり、朝が来る

一日一冊は、どうにかこうにか本を読んでる

神社を調べてたら、陰陽の神々と修験について知らないといけなくなって、そしたら今度はたたらに触らざるを得ず、古代から戦国時代までの遺跡関係も避けられず、寺も知らないといけないけどそれは置いておいて(仏像は好きだけど寺はどうも覚えられない)、祝詞、神楽歌、催馬楽梁塵秘抄あたりも触りながら、最終的には本居宣長までいく羽目になった。

そこまできてやっと、本当に石見神楽を知るための土台になる。舞法とか楽は、センスないから無理。やっぱり普通に見たいし

あと、日本書紀古事記は訳文ではなくて書き下し文見ないといけないし、石見銀山街道ほか川と街道筋も頭にいれておかないといけないし、実は物部氏がキーの一つな気がしてきている。あと、賀茂氏ね。
加えて宇佐神宮伊勢神宮。できれば鹿島・香取の宮も、行けるときが来たら行かないといけない。


いま思い出されるのは全て悪夢のようだけど、松江の仕事と浜田に住んだこと、両方あるのは、良くとれば財産、悪くとればバカの悪あがき。

『校訂石見神楽台本』の註釈をおってると、とにかく膨大な量の他地域の神楽歌や各種和歌集なども参照しているし、そのなかでも「鍾馗」だったかな?などの演目の神楽歌は『玉鉾百首』というのが多いに影響を受けているよう。
その『玉鉾百首』は本居宣長が詠んだものらしい。

だから、本居宣長まできてしまった

浜田と本居宣長の関係は、なんかいろいろあったらしくて深いわけなのだけど、松平家だから尊皇攘夷方面まではいかなくても、浜田藩の頃から本居宣長国学には多いに影響を受けていた、と、考えるのは自然なことであって、できればもう少し浜田の国学者本居宣長の関係について知りたい。

個人的には、浜田における廃仏毀釈の度合いも気になるところではあるけど、それはまた調べないといけなくなったら考える。

ただ疑問なのは、どういう経緯で篠原実たちは、そういった膨大な「歌」を調査し得たのか、ということ。
そもそも、なぜそういった「歌」を辿れる状態の神楽歌が六調子の時代あるいは八調子への改正の段階で作られたのか。
ある歌は岩手の神社の神楽歌だ、とか。
誰がそれを伝えたのか、どのように知り得たのか。

浜田のどこかでそういう資料の集積をしていたのかな。なにもわからない

いま自分の中の仮説の上では、西から来たものについては何となく納得がいく…人の流れの向きを考えたら。
あと畿内くらいなら自然なこととも思う。
だから、豊岡姫(山)に関わる歌は、宮廷神楽歌とかともう一度見比べてみようかと思ってる。

でも、岩手はなんだろう。
岩手の神楽も島根の神楽も好きだから、嬉しい気持ちはあるけど、いまいち道順がわからない。

日本海側ならまだしも、対角線上というか、それだけ離れてるのに、なんでだろう。
その元になった歌なり信仰なり人の動きなりわかればスッキリするのだけど

読んでも読んでもわからないことが多すぎる


最近読んだ本のなかで一番良かったのは、真弓常忠『古代の鉄と神々』
考古学的たたら研究ではなくて、祭祀論の視点というのがすごい面白かった。
どこまでそれがいまの土地に当てはめて実証できるかは、わからないし、そもそも私みたいな無学のものが土やら地名やら見てわかるわけでもないのだけど。
またそれについてはもう少し調べてから書く。

先行文献調べるんなら、新しい本を読んだ方がいろいろ手っ取り早いし、最新の見解がわかるのだけど、なんだか、いまの私にはいまいち読みにくい。入り乱れてて混乱してしまう
真弓常忠、大野晋五来重の本のほうがなんか読みやすかったな。
斎藤英喜著書も読みやすいほう、なかなか読み進んでないけど

定説、通説というのもそうやってできていくのだろうかな

でも、新しいの読まないとそういう人たちの考え方が定説、通説あるいは異端なのかもわからないという、スパイラル

あとたまにうっかり新興宗教系の本がヒットするし、図書館使えないなかでの資料探しは結構難しい。
図書館ってありがたいな


時間ばかり過ぎていって、憂鬱