舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

菅公とか長浜刀とか

長浜刀は、周布氏が長州に行ってしまうまでの室町時代~戦国時代のあたりで作られたもので(1394~1595)、周布氏の大陸との貿易でも輸出物のなかに刀(出羽刀も含む?)についての記載があったらしい。

つまるところ、その時点では高度な製鉄技術と刀鍛冶(多分熱田神社はそれと関係がある)が、基盤を作っていたわけなので、そうなると、当然熊野信仰はそれより前にもう定着していたとも考えられる。
つまり熊野信仰に由来する芸能も伝わっていたとも考えられる。

あまり、こういうの覚えたりするの苦手なのだけど

周布氏は、益田兼定が周布郷の地頭になって「周布氏」となったようで、弟の兼直が「末元氏」、兼忠「丸茂氏」、兼政「多根氏」あと、誰だか忘れたけど来原氏もいるらしい。
なんとなーくだけど、たぶん、そこが要衝ってことなのか

あと、益田に拠点を移して益田氏と名乗る前は、浜田の御神本(上府・一宮の浜)に、居を構えた御神本氏。
御神本氏は、藤原国兼というひとが石見守を経て土着化してそうなったそうなのだけど、なんか諸説がありそうでややこしい。

とにかく、その説でいくと、藤原国兼の9世祖に藤原北家藤原忠平がいる。
さらに辿って辿って辿れば、中臣鎌足まで行き着くということ。

まあ、ただ、自分の先祖を貴人に繋げて正当化というか、権威付けするのはよくあることなので、いろいろ厄介ではあるのだけど、もし本当に藤原忠平の家系の傍流となると、面白い。

というのも、藤原忠平の兄弟に、藤原時平(長男)がいるから。
時平死後、なんやかんやで家督を継いだのは忠平(四男)。
時平の遺志を継いで「延喜格式」を完成させたり、宇多天皇が皇女を降嫁させたり、平将門が若い頃家人として仕えたりしていたらしい。ネタの宝庫

宇多天皇が忠平に降嫁させた皇女というのは、一説では菅原道真女(むすめ)とも。
この女性から生まれた実頼が長男なのだけど、腹違いの次男・師輔が家督を継いで、後々の道長やらなんやらに続いていくことになる(はず)。

なんでそうなるのか、そこまで調べてないからよくわからないけど、師輔は北野天満宮を利用して実頼の子孫を呪ったらしい。
けど、なんで道真で道真の子孫を呪うのかよくわからない。
自分の方が血縁者より懇ろに供養してるぞ、的な?

ちなみに延喜格式の完成が927年だそうで、周布氏が拠点を置いたのは1223年くらいのようだから、少なくとも300年くらいの隔たりはあるとはいえ、もし本当に傍流だとしても藤原北家の流れを組んでいたなら、菅原道真を祀る理由はある。

もちろん、それだけじゃなくて、普通に天神信仰はあっただろうけど、周布氏の拠点周辺に天満宮があるから、なんとなく面白い。


春日神を祀っているところも所々にある。
春日神は、中臣連(鎌足)の祖神で、藤原氏氏神
武甕槌命経津主命天児屋根命比売神と、若宮の天押雲根命
タケミカヅチとフツヌシはあとで祀るようになったらしいけど、春日神といったらこの4柱ないし5柱の神を指すらしい。


そう思うと、国つ神系統の神社が多いけど、要所要所で中央勢力の影は見え隠れするし、その理由は、やっぱりたたらなり銀山なりなんだろうなあと思わざるを得ない。



そうそう、それで、刀の話に戻れば、1850年代に鍋石でたたら経営と鍛冶をしていた江尾護國作の太刀があるらしい。
叔父で養父の江尾兼参が願主で天日隅宮(出雲大社)に奉納するために作刀されたらしいのだけど、この兼参は国学にも通じてたとのこと。
藤井宗雄は、どうもこの兼参とその父・兼愛に影響を受けて、平田篤胤国学に傾注したらしい。
庄屋の三男坊だからいろいろ本を読んだりいろいろできたのかもしれない。

平田篤胤国学となると、若干の過激思想も含んでいるんだけれども、そうすると浜田も廃仏毀釈がもしかしたら激しかったのか?

ああ、というか八調子の神道色は、そこからくるのかもしれない。
でもある程度の柔軟性というか許容力は感じられる。

とはいえ平田篤胤本居宣長を尊敬していたそうだから、藤井宗雄は平田篤胤経由で本居宣長にたどり着いた可能性もある。
浜田は元々本居宣長との縁も深いし。
あと、本居宣長は生涯をとおしてたくさん歌を詠んでいたから、同じく歌を愛した藤井宗雄が影響受けたとしても、それは自然かもしれない。


あと、その太刀から察するに、つまり幕末くらいで出雲大社は杵築大社でもなく、天日隅宮と呼ばれていたのだろうか、と思うとそれも面白い。


これ以上藤井宗雄についてとか、辿ることができるんだろうか