無い
神楽のことは続けてるんだね、と言われるけど、違うのよ
もう私には神楽のことしかないのよ
生きてる理由がなにも思い浮かばない
気が済んだらはいサヨナラ
働く場所、住む場所、憧れてたことは幸いなことに全部叶って、あとは神楽だけ。でも、そうやって行き着いた先が鬱かよってね。嗤えるね
生まれ直すところからやり直せってね
普通に生きていけると思ってたら結局無理だった
島根は好き。それは間違いない
でもなんだろう
なんか不安定でコントロールできなくなる
どうせなんもできないって気持ちになる
まあどうせなんもできないんですけど
何になりたいか?そんなんこっちが知りたいわ。
むしろ私みたいな屑は何になれるか、教えていただけますか。
しんどいなあ
島根は好き、神楽は好き
それは変わってないはずなんだけど何がいけないんだ?何が変わっちまったんだ
おじい
所務分けのおぢい
じい、じゃなくて、ぢい、なとこがすき
所望分けとかいろいろいうけど、多分所務なんだと思われる
川本の三原にある武明八幡宮の古文書記録から
永正18(1521)年「…来年より悉く所務あるべく候此の旨を以て神前の御祈念頼み奉り候…」ってあって
所務は本来職務に伴う権利、義務を指す
中世では特に年貢徴収と田地管理を意味した
とのこと
所在を分鎮し、所領を分けて参らするなり
の口上とかは、そういうニュアンスを感じる。
武士的というか。わからんけどね
ああ、あと、八幡宮をどの八幡宮から勧請してきたかで土地の背景がわかるのも面白い
いやしかしなんでこの古文書類の資料コピーしたのか忘れたな
読み返してもさっぱりわからん
いかなるものやらん
お題にそって、取捨選択しながらいろいろ発表しているなかで、限られた時間で、わたしの神楽観やこれまでなにを見聞きし、なにを考えてきたのか、伝えるのって無理
卒論と、ここと、あと若干の補足を見ていただいて、やっと少しはわたしの頭の中身がわかるかなって感じ
伝わらないもどかしさ
その上、あっちいってこっちいって、波のように揺れながらやってきているのだから、うまく説明できないし、可視化も難しい。というか、めんどい。
しかも、素人ながらもう来年で10年?くらい神楽についてやってきているわけで、ここも途切れ途切れながら五年近くなるわけで、
わたし自身でさえ、ここ読み返して、ははあそんなこと考えたのね!とか思う始末
その点、いろいろ面倒だけど、続けていて良かったのかな、とは少し思う、少しね
面倒事もかなり多いけど
点々とした知識の蓄積は、少しばかりはされているのだけど、それを整理しきれていないのだと思う。
技量不足
なんか、もどかしい
どうにもならん、という気持ちと毎日戦ってる
■
結局、じぶんを一番認められないのは、じぶん
何もかわらなかったんだから
根本の部分は何一つ前に進めていない
穏やかに眠れる日は来るのかな
たいふ
ずいぶんと前に、雇われ舞になってから娯楽化した、みたいなこと読んで、なるほどねえと思いかけたけど、よく考えたら、自分達でやらない限り、誰かを、雇って舞を舞わせることになるのよね。
神楽師とか、神楽大夫というひとたちもいたのだから
最近ことに難しいのは、やろうとすればするほど、差別問題とも、向き合わないといけなくなる。
つまびらかにすれば、傷付く人もいるだろうし、
逆に隠してしまえば、それはそれで、何か違う気もする。
農民の文化ばかりがいわゆる「民俗」として注目されがちだけど、あくまでもパーツのひとつにすぎない。
もっとたくさんの、いろんな立場の人の畏れから始まって、苦しみや、祈りや、思いとか、うーん…まあようは人生があって、地層のように重なって、足元に横たわっている。
お互いに、お互いがいるから、コミュニティが成り立っていたはずなのに、なんか、むずかしい。
というよりも、人間が扱う技術?術?は増えていったとしても、人間の精神構造は、なんぼもかわってないんだと思う。
歴史は繰り返すとか、過去に学ぶとかいうけど、そもそもかわってないのよ。あるスパンでなにかしらの目を引く出来事が火山みたいにボコッと出てくるだけにすぎない。
と、おもう。
現時点での大元考
わたしの内蔵ディスクのキャパを大幅に上回る情報量に溺れていて、そろそろ外付けHDDに入れないと脳みそがぶっ飛びそうなので
まだ精査してないし、個人の見解でしかありませんが
まあいろいろあって、
オオモトサマ
コウジンサマ
トシガミサマ
そして、ミサキ
調べているわけだけど、どうにもオオモトサマだけ、全容が見えてこない
広く分布しているものほど、古くからあるものだと考えれば良いと教わったけど、逆に、超ピンポイントな場合はどう考えたら良いんだろう。
そもそもオオモトサマの特性が、実はよくわかっていないなと実感していて
荒神、なかでも竈門の神や、ミサキなんかは、かなり、個性というか、パターンがあるから判断つきやすい
あと、トシガミサマも比較的そっち
で、そのわかっているパターンに当てはめてみると、オオモトサマというのは、微妙に異なる特性を持っている気がする。
祟る神ではあるけども
でも昔は死者供養の神楽、注連神楽、あるいは、ミサキ神楽があったともいうから、変死者とか、そういうタマとは区別していた。
邑智郡界隈とかでは、藁蛇を重要視するけど、それはどっちかといえば田の神としてのコウジンによく似てる気がする。
一方で、どうも那賀郡で藁蛇というのは、あまりみた記憶がない。
どこだったかではじめて藁蛇を見て、これか噂のアレ!!!ってなったくらいだから。
ミサキほど対象もはっきりしてない気がする
なんか、ぼんやり祖先神、開拓神、的な
名もなき小祠たちを、明治以降とりあえず「大元さん」にしたパターンもあると思う
でも、何事もない土地にわざわざ神を祀ることはしないから、やっぱりなんらかの祟りなり、大きな人の死なり、なにかがあった場所、にあるのだと思う。
クニトコタチやアメノミナカヌシといまはされているということは、国学、記紀神話への理解が進んでからなはずなので、当てはめられたのは早くても江戸中期とかそれ以降なんじゃないかな?
浜田藩は本居宣長や国学には関心度が高かったようだから、案外明治よりも前かもしれない。
あと、吉田神道なのかなあとも思う。これもまたよくわからん
一方で、ムラムラにある宮は、かなり外の氏神が多い
春日(藤原市)や大社系統、熱田、大三島…そして八幡
歴史的な背景で言えば、
尼子や毛利とか、大きな戦国大名に挟まれて、自分等のとこからは大きな勢力は生まれず、街道や鉱脈を狙われて、翻弄されてきた、とおもう。
そのなかで、わざわざ神代七代の創造神を「大元神社」あるいは「大元社」に宛てた理由
もしかしたら、これは完全にわたしの想像だけど
小さな小さな抵抗だったのかもしれないなって、思うのです
いろんなよその神さんがおりんさるが、このムラを作ったのは、土地を拓いたのは、自分らあの祖先
自分らあは土地の開拓者、クニトコタチの子孫として、この土地に住んできたんだ、という石見人の矜持
だったのかもなあって。
これが今現在でのわたしの想像
これからまた変わるかもしれない。
ちなみに、ああなるほどね、と思ったのは
何十年単位の式年祭の神上げの意味は、ちょうどそのくらいのスパンで「個人としての死者を記憶する人のいなくなる長さ」=「死者の個性が失われるタイミング」=「神(霊の集合体)に加えられるタイミング」だといわれて
人の本当の「死」は、生きてきた時の記憶が失われるときで、そのときホトケからカミになるのだと
昔の人の寿命とか考えて、それはすごく腑に落ちる。
ホトケから、カミに
風のひとつになるときがくる。
仏教観念と日本人の感性がうまく融合した結果そうなったんだろうな。