舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

私見

民俗、あるいは民俗芸能について自分なりの解釈

あるムラ、集団において、ある事柄を記憶するために意図的に作り出されたもの

それは、思想かもしれないし、歴史かもしれないし

そもそも、数学と違って絶対的な公式や定義を当てはめようとすることに無理があるんだと思う
必ず、狭間からこぼれ落ちる存在がある

それが、人間なのだと思う。不完全性というか

ある意味、絶対唯一神って数学的な捉え方なのかもな、と今ふと思った。
なんとなくね。


でも、
残したいとか何かしらの心持ちを抱える人と
それに共感する人と
それを体現できる人が
同時代に複数人いないと、しかもそれに連続性がないと、残っていかないものだとも思う。

残したくても体現できなければ
誰にも共感されなければ
残したいという心持ちを持つ人がいなければ
続かない。


人は、それぞれ人ひとりの人生分の長さしかないのに
それ以上の永い時を経て今残っているというのは不思議なことだと思う
変異したり断絶したりもしてるけど、入れ替わり立ち替わり何かしらの心持ちで繋いでいってる

なんでか?
不思議



オイルランプというよりは、火鉢の炭かな。
…あ、かまどね。
うーーーーーんなるほど深い

弱くなったり強くなったりしながらじくじくと思ったよりながく燃えるもんだから


でも私自身は絶対呼吸使えないタイプだよなーって思う。
根本的にからだの端々まで血が巡ってないし
次女だし(?)

なので、諸々済んだらげんやーの髪型にしようと思ってて、今はそれだけが楽しみ
同じ髪伸ばすでもげんやーヘアーは絶対楽やんか…私もサイドが癖強くて普通に伸ばすとハグ●ッドになるんよね…ハ●リッドになるよりげんやーのほうが絶対いいやろ…眉毛ないし
これで目が大きくて、スタイルが良ければ良いんだけど、まあそれは生まれ直すところから始めないといけないんで

もう女は捨てるんだ…要らねえよこんなもん糞食らえだよ
とっとと早いとこしにてえよ
だから今だけやってみたかった髪型にしてやるんだ
今までの自分じゃないものになりたい

自分で自分を良しといえる自分になりたい
どういう姿が、どういう私が、どういうふうになればいいんだ
どう振る舞えばいいんだ
どう生きればいいんだ
どうして私は普通になれなかったんだなりたかったし、当然なるもんだと思っていたのに。平凡でつまらない人間だから、それらしく、過ごせるもんだと思っていたのに

なんで何一つ叶わない

顔も体も頭の中も人生ももうなんも要らねえ

どうせ髪型だって思うようにはならないんだよ
わかってる

私の心の火は冷や水ぶっかけられてとうに消えてしまったよ

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です

その中で一番すぐれているのは愛です

小さい頃からの刷り込みとは恐ろしいもので、嫌でもずっと覚えてはいるものだけど、正直どういうことなんかなあと思っていた

宗教なんだから信仰推しやろ、みたいな

間違った考えかもだから、あくまで薬でぼんやりしたボンクラ頭が考えることでしかないのだけど

物理的な攻撃というか、生命の危機を感じたときに

自分の命のために自分の命は懸けられない

生きるんじゃなくて、死ぬ方のとき

でもたぶん、他人や、愛する人や、神になら、自分の命を懸けて、投げ出せるということになるんだとおもう

このときの神って、たぶん、人格神になるのかなって

人身御供みたいなものでは、水神とか、自然神もあるけど、ある程度神の方に意思というか、人格(神格?)がある姿を想定しているというか

もっと原始的な「力」の神は対象でないような気がした

神道多神教ではあるけど、国家神道ではある種の一神教的な側面を持ってると思う

神の名のもとによる尊厳を守るための死

他人のこともひどく傷付ける、命を奪う場合がほとんどだから、それを容認(黙認?奨励?)する神は、わたしは悲しく感じる

本当にあなたを愛する人をあなた(神)は愛していますか、と問いたい

神の名のもとに行動決定することが信仰というのなら、それは自己愛を超えた神への愛ということになるのかな

その、行動とそれが引き起こす結果については別として

一方で、他人のために、行動決定をするのなら、それはラブであれ、アガペーであれ、愛と呼べるものなんだろうな

死ぬ間際に、愛する人を思い浮かべるのは、人への愛

神を思い浮かべるのも、神への愛

一抹の後悔やなにかしら己のことについて思いが去来するのも、自分(あるいは誰かに向けての)に対する愛

それはエゴの愛ではないと思う…たぶん

えんむくん思い出したら自信なくなったな

ま、とにかくそうなれば、愛が残る

ミルフィーユのような

知らないあいだに知らないこと書いてた。びっくりだね

一年、あるいはそれ以上の時間をかけて壊れていったものは、直るのもやっぱり一年とかそれ以上の時間がかかるわけで、
でもだからといって、その間失われていたわけではなくて、言うなれば、落葉に埋もれた草みたいな

すべて、水平線上なのではなくて、地層なのだなと改めて感じる

ちぎって捨てたはずでも、見下ろせば足元にある


やっと神楽のことへ意識を向ける余力が少しだけ出てきて、時々考えてみる
いまは、某よもやよもやのおかげで、新しく色々考えを巡らせるのもたのしい

五神、五行と、五方、五つの季節…に加えて、東北みたいに修験の「仏」の色がより濃いところでは、五大明王まで出てきてしまうわけなのだけど、ここまでくると、なんかめちゃくちゃになってくるのよね

鬼剣舞は、埴安大王にいるとこにカッカタというチャリ面みたいなので、不動明王なのだけど、なんでそうなったんだろうとか、西方の白面が、もっとも重要といわれてるけど、こっちではそういう感じしないなあとか
西方は、恐らくは西方浄土も示唆されてるのだと思うけど
西だけど右白虎だしなあ…やっぱり長男さんのほうがこっちは強めな印象

あ、でもそうなると虎が出てくるのはある意味自然なのか
土地が虎との親和性が高いのかな

潮の流れは、東北なんかは北?東?オホーツク?の方から来てそうだけど…


あと、次郎さんは、明王的にいえば雷をあらわす?ようなので、そうなると善ちゃんなのよね
でも、明王の名前とかビジュアルにみつりちゃんといぐろさん要素があるのは面白い
…あ、だから髪が赤みより黄色系が強いのか

それ以上は明王はむずかしい
カタカナ多すぎだし


湯立てを考えれば、赤(南)の対は黒(北)で、火(赤)の対は水(黒)なのだけど、それについては、不思議なくらい地域を越えて共通してる
はやちねさんもあるし、花祭も地域によってだけどあるし、神奈川にもあった。五神も則ってる

火と水で湯を作り、それをかぶることで清めたり、死と再生をあらわしたり?した結果導き出されるのが日なので、たぶんなんかしらの示唆はあるのだろうけど、そう思うと五神なんかはあんまりそれだけを突出して重要視してるようにも思えない
あくまでも五郎さんが重要なので

あーーー…使いがもしかしてカッカタなのか?
顔が似てる

カッカタが、向こうでも使いの役割で、本当の不動明王は姿見えないとか、本当は違うもので表してたとか、そういう可能性もある。
大学の時もっと真面目に見ておけばよかったなあ


ようするに、いろいろなことが失敗したミルフィーユみたいにぐちゃぐちゃ重なっていて、一枚一枚うまくペロッて剥がせないのよね

だから中途半端な杓子定規しかないし、目の粗すぎるザルで掬ってるようなものだから、ボロボロとこぼれる
でも、それにすら気づいてない人も多い
だから、意味不明な嘘の流布が、当然のように通説になる

石見神楽だけじゃなくて、説明し尽くされたかのように思えるところでも、論と実際の解離はあると思う

地層だって、風雨に穿たれて露出したところと、全く見えないところ、同じ面でも見える層が違うところ、いろいろある
旧石器時代がないと思ったら、あ!関東ローム層!!みたいなこともある(うろ覚え)


つまり、いま、自分の足元で見えるものからしか、いうことができないので、断言したり断罪したり、一方が正道他方が邪道と決めることもできない
したらいけない

ひとも、かぐらも、れきしも
という、自戒


昔以上に、頭のなかが不明瞭で行ったり来たり積んだり壊したり整理されないし、うまく表す言葉が出てこない
なんにも言葉が出てこない
悔しいもどかしい

よもやよもやしてないで、本を読めばいいのだけど
文字を食べるのが苦しい

わたしの頭のなかが大失敗の崩れたミルフィー
わたしなんか、無能だから馬鹿だから屑だからこんなことになるし、なんもできないなんも成さない誰にも認められない愚図だから救われない無駄に時間を費やしてるだけ

吸う吐く

なんか、また久しぶりになってしまいました

一年、神楽を見られんかったけ
冬服もまるっきり手元にないけ

先々週ようやく一人での遠出に許可が出たので、おっかなびっくり帰郷

飛行機と新幹線はまだだめだから、寝台で。

久しぶりに、肺一杯に吸って、吐く感覚。
どうしてこんなことになってしまったのかとか、この一年糞みたいで何してたんだろうとか、ぐじゃぐじゃのままだけど、久しぶりに慣れ親しんだ胴の音や空気の震えがからだにすうっと馴染んで吸収されていくようで気持ちがいい

といっても、たぶん、服用必須が前提のコンディションなんだけど


悩んでたけど帰れてよかった

マツリの基本型

『日本の聖と賤』という本を読んでる
わかるといえばわかるけど、わからないといえばわからない。むずかしい

マツリの基本型として巫術(シャーマニズム儀礼)がのこっているというはなしで

「神憑りは、だんだんクルウ状態になって激しい身体表現」をともなう
「この神遊びが、その場にふさわしい状況をより効果的につくりだすためには、どうしても歌舞音曲は欠くことができない」
「ハヤシ(囃)というのは、クルウ状態になりつつあるシャーマンを、そのまわりを取りかこんでいる人たちがかけ声などをかけてその状態を加速させる」

そのトランス状態をクルウといい
神との交感儀礼を行い、託宣をカタリ、呪文をトナエルという

このマイ、オドリ、クルイ、カタリ、トナエルがマツリの基本型である、と、いうことらしい

これが村の防疫厄除などのマツリとして、村落に受け入れられていたけど、体制的社会においては人心を惑わすことを理由に、卑賤化されていく…というはなしに繋がっていくのだけど、これはとても納得がいくようなはなし。
なぜ人心を惑わすことを恐れたかといえば、それが「乱」となって、体制を脅かす可能性があるわけで。

だから、体制的社会や国家神道を進めていくにあたっては、やたらな神がカタリ、トナエたら困るってこと。

宮が掃除されておらず汚い、とかその程度ならかわいいもんだけど、米の出来不出来も内容によっては体制の脅威になりえる。また、なにか言われたら不都合な神々も歴史的にはおわすわけなので、まるごと引っくるめてやめさせた方が早い。


でも面白いのは、それでも人は歌舞音曲は捨てられなかったってことだし、やもすれば、神憑りはしなくても、トランス状態にはなることがある
今でもそれは当てはまるように思う

でも、大事なのはあくまでも舞い踊るほうということがわかるのも面白い。

いまもかけ声という囃しも、楽という囃子もハヤシとしてあるわけだけど、それはあくまで舞人をトランス状態にさせ、「神遊び」の状況を作り出すことに意味があるので、そればっかりが走ればバランスが崩れる。

ひとつバランス崩れれば、神遊びにならないし、みんな気になってもっと崩れる

師匠がオーケストラ、というのはまさにもっともだとおもう


その形態というか…「マツリ」の姿が時代や場所によって人やモノを変えながら今なお続いているのは面白いかも

西から来るもの のつづき

これにはつづきがあって、
信仰が製鉄と共に西から東へ上ってきたからと言って、やっぱり神楽については、安直にそれだけで判断はできないとおもう。

それだけでいうと、弥生時代後期や古墳時代とかまで遡ってしまうだろうから、いくらなんでも現実的ではない。

となると、次に絡んでくるのは修験道

これは、大きいと思う

身近な例でいけば、大麻山神社とかその他もろもろ、たくさんある
これをもっと突き詰めようとすると、お寺まで調べないといけないから、ちとたいぎ

石見国神社記』を長し見た限り、多陀寺もたしかそうだったかな?寺内社という意味なのだろうけど

きりがない


でもなかでも、熊野権現は大きいんじゃないかと思う
いっぽうで、白山は予想に反して、少なくとも神社ベースでは痕跡が追いにくい
もしかしたら摂社末社あたりを見逃しているかもだけど、とりたてて大きいものではなさそう。

だから「生まれ清まり」の思想はどちらかというと熊野信仰からくるものなのではないかなと
山のあり方とか、勢力とか、もろもろ含めて。

だからといって密教系寺院が多いわけではないと思うけど…

お葬式的な観点でいえばそれもそうかなと、なんとなく


ただ、よくわかんないけど、ここらへんの神楽は、修験色は当然ありながらも、それだけではない、と思う。
まあ八調子は当然として…六調子を見ても、なんとなく感触として、法印神楽ではない気がする。
県境越えて西とか南のほう行けばまた変わるけど、とりあえず当地についてに限定すれば、そう言って良いと思う。

ということは、今度は「神道」が関わってくるのか?

あと、四国からのヒト・信仰の流入も無視できないところではある。

……というところでとりあえずストップ


ぐっと時代は下がって、石見銀山街道筋とかも視野に入れて良いのかなと思ってはみたけど、当然のことながら何回も中継・交代を経て大坂だったかな?に納めてるので、いまいちピンと来ない。
その感覚で言うなら、たぶんもう少し前の戦国武将あたりからの流れを見た方がいい気がしてる。
でも戦国時代は何回読んでもワケわからん

京極尼子毛利??

でもやっぱり陸路より海路じゃないかなあ。
そうなると、西も東も瀬戸内も圏内にはいる。


それと、神社については、明治時代に入ってからご祭神が整理されたところも多いそうだから、それも留意しておかないといけない。
「なにか」を祀っていた、ことは事実でも、規格に当てはめて整理されたのはことのほか最近のことだということに驚く。
そのうちの多くは祖先神系なのではないかと思うけど…
でも、それをそこで祀ることに理由があったのはたしかなんだろうな


オチはない。進行形で考えていることだから

いっそ古文書研究が豊富で進んでたり、先行文献が出揃ってたりするところのほうが楽なのになあって感じ。
どうせそうなると私なんか、独自の新説なんか考えられんけど、少なくとも調べてわかる欲求は満たされるのに。

西から来るもの

なんとなくぼんやり不快感があったり、めまいと言えるかわからないくらくら視点が定まらない感じだったりで、パソコン仕事お休みしていたのだけど、神々についてもだいぶん勉強したからいよいよ石見国神社について整理を時々やってみる

あまりにもわやなので、とりあえず、神社の系統だては最低限に。

シンプルに厳島神社イチキシマヒメとなるならいいけど、ならんもんのほうがおおい

大歳の神と大元の神をどうするかはまた考えることにして
ひとまず①スサノオと八王子とか、チームスサノオ、②主に大国主系のチーム出雲神話、③それ以外、チーム天孫、チーム地主もろもろフリースペース
加えて、今回は④チーム金属をご準備
チームたたらにするとちょっといさかいがあったり、銀があったり銅があったりもろもろね、加味したらチーム金属ということで


①チームスサノオは、基点をスサノオとして、イソタケルや、住吉大社のご祭神、宗像大社のご祭神みたいなウケヒとかでできた神々
漏れがあったら随時補足
高田先生の話を読む限り、出雲国では(余力があったらそのうちまとめるけど)チームスサノオが優勢のかんじの印象
出雲版ではオロチをチームスサノオにいれることになるかな。

②チーム出雲神話は、国津神系のなかでもオオクニヌシ(オオモノヌシも一応含む)、タケミナカタコトシロヌシ
結局のところ、このチームの行く先をたどると、吉備とか丹後とか大和とか越とか見える化する君なので、比較対象要員

③チームその他は、たまにぽこっと天孫組が出てくる、あとはどなたかもわからない神もおられるので、引き続き要調査
もろもろのクッションだかフリースペースだかなあつかい

④チーム金属は、①~③チーム横断型で、ワシとオマエの仲だねってする要員

八幡さんは③チームその他「八幡神社」と④チーム金属『鉄』でニコイチ
銅山とか銀山はなあ…②チーム出雲神話「佐比売山神社」④チーム金属『銀山』でニコイチ

みたいなことを、延々とエクセルでやるわけです。
地名もとりあえず郵便番号順にツラーとならべて、一覧作って

全部作って段取りまではしたんだけど、チーム分けがなんと難しい
スサノオいうても娘息子は関係ないかといえばそうともいえず同じ一族組に属すものは一応整理したいし、そのためにはまた本読まんとだし
書き方はみんな違うし
あとからプーンと読んでて、あれ、あなた春日神ではないの、ってなったり。

うだらうだらしながらも、穴もまだ多いけれども、とりあえずチームスサノオ代表スサノオは○、一族は△みたいな感じであてはめていったらなんと、思ったよりスサノオ少ない!
ううーん大森と仁摩はおびただしいけど…
以下はたまーにちょびっちょびっとでてくる
でも、ありそうなところにちょびっと見えると、うれしい
推定町場や「出た」地区には今でも牛頭天王の名前や由来を残してるところがある。
※これつまり、既に牛頭天王=スサノオというのがすっかり身に付いてから勧請されたってことよね。
単に「スサノオ」にしてても、それは牛頭天王の習合を隠すために表の名をそうしたのか、朱砂の王として祭られていたのか、どんなゆかりなのか
思った以上に少ないというのが逆にオタク心刺激する


②チーム出雲神話は、オオクニヌシ=オオモノヌシにするかなど様々な問題を抱えつつも、あんまり考えても考える時間がもったいないくらい少ない、ごめん


そして、一番厄介で圧倒的数で買ったのは③チームその他
圧倒的勝利は「八幡神社
稲荷神社も「鋳成り」につうじるので、ウカノミタマ?を祭神とするところはこちらでカウント
トヨウケヒメは勉強してから入れようか考える




薬飲んで足元に猫がいて、ここまでぼんやり書くの割りと難しかったんだけど、よーーするに
極めてシンプルに結論を出せば
石見は、宇佐の方から製鉄民がきて一番根付いた、のかなということ。
だから、ところどころ見られるスサノオや出雲の神々は、もちろんこちらにも手は伸ばしていたけどやっぱり「こっち」ではなかったんでしょうね
来た順番はわからんけど、最終的に成功したのは宇佐から来た「八幡神社」かな。宇佐の人々がもたらした製鉄の技術
もちろん「石清水八幡宮」から分祀されてるところもあるし、いろんな由来はあるのでしょうけど
出雲系の神、国つ神の製鉄法から、宇佐(大陸)の製鉄法へ変わったターニングポイントがどこかにあるのかもしれない。

てなると、周布氏の対馬を中継した大陸貿易は気になるなあ


あと、本当に不意打ちな感じで春日神系がいたりするのと、あと、たしか何社かポンッと社格があげられてるのもあるのよ。手が回るんならそれも調べたいけどなあ


ともかくとして。


ヒト・神・モノ・技術・信仰が西からズズズッときたとき、祭儀は伝授があると思うけどそれに伴う神楽とかはついてきたのかなあ
これが確定されれば、
たとえば出雲の神、国つ神系の古代祭祀は、下手したら弥生末期(3世紀末くらい)からはじまり、古墳時代くらいまでにあらかた平定されるわけだから、その前後で西の文化も入ってるはずなのよね。

あと、出雲は西をみない、みるのは東か南
対抗勢力が向こうにいるのがわかってるから?


うーん…眠くないけどなんか頭が少しずつシャットダウンされてきてるからとりあえずそほど


神社縁起とか翻刻版見ながらまた考えるしかないかな


そもそもわたしはなにについてかんがえてたんだっけ